松岡修造のパラリンピック一直線!BACK NUMBER
修造、ゴールボール・天摩由貴の
「生粋の負けず嫌い魂」に感服!
posted2019/05/12 08:30
text by
松岡修造Shuzo Matsuoka
photograph by
Yuki Suenaga
松岡修造が、パラアスリートと真剣に向き合い、その人生を深く掘り下げていく「松岡修造のパラリンピック一直線!」。女子ゴールボール日本代表・天摩由貴さんは、もともと陸上の短距離選手として、ロンドンパラリンピックにも出場したが、予選敗退。世界との差を痛感し、一度はスポーツから離れる人生を選択した。
陸上引退後、日大の大学院に進学。学校に通いながら、母校である筑波大学附属視覚特別支援学校の教壇に立ち、数学の非常勤講師などを務めていた。ゴールボール部の練習に誘われ、競技者として戻ってきたのは2014年1月のことだ。
「ちょっとだけ体験してみなよ」
松岡 スポーツ選手として復帰するまでの1年半で気持ちにどんな変化があったんですか。陸上からゴールボールって、だいぶ離れてますけど。
天摩 「ちょっとやってみない? ちょっとだけ体験してみなよ」って、最初はそんな感じだったんです。私も当初は断っていて、はっきりイヤだって言いました。
松岡 スポーツはもうやらないと決めてましたしね。
天摩 それもあったし、2020年を目指してやってみないかと言われたときに引っかかるものがあって。陸上でリオを目指す覚悟もできなかった私が、さらに4年後の東京を目指すなんて絶対にムリだって思ったんです。そんな中途半端な気持ちで目指しちゃいけないし、生半可な気持ちではパラリンピックには行けないということがわかっていたので。
松岡 経験上、そう思った。
天摩 はい。やっぱりパラリンピックを目指すとなると生活の中心がすべてそれになるじゃないですか。食事だって睡眠だって競技のためというか、練習のために友だちの誘いを断らなければいけない時もある。練習するのが嫌なわけじゃないけど、ちょっと遊びたいなと思う自分もいるわけです。
天摩由貴(てんま・ゆき)
1990年7月26日 青森県生まれ。先天性の網膜色素変性症を患っており、視野狭窄が徐々に進み、失明の可能性がある。幼い頃から運動が好きで、高校、大学時代は陸上に打ち込み、ロンドンパラリンピックでは陸上女子短距離に出場。その後ゴールボールに転向し、リオパラリンピックでは日本代表として5位入賞。2017年からは日本代表のキャプテンを務め、アジアパラ競技大会では2014(インチョン)、2018(ジャカルタ)とメダル獲得を果たしている。㈱マイテック勤務、チーム附属所属。
松岡 ほほう……。天摩さん、良い意味で不思議な性格というか……。
天摩 えっ?
松岡 だってムリだと思ったのになんでやるんですか。
天摩 やらないって私も言ったんです。でも、「そう言わずにさあ」って誘われて。
松岡 ハハハハ。