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湘南の会長が語る「Jリーグと平成」。
理想は、地域の公共財になること。
posted2019/04/30 11:00
text by
戸塚啓Kei Totsuka
photograph by
Getty Images
平成から令和へ年号が変わるタイミングで、Jリーグの歴史を振り返ってみたい。そのための案内役として、湘南ベルマーレの眞壁潔会長に聞いた。
ベルマーレが喜びも悲しみも知るクラブだからである。
日本サッカーリーグの名門だった藤和不動産サッカー部をルーツに持ち、1993年のJリーグ開幕後は“湘南の暴れん坊”と呼ばれる攻撃的なスタイルでタイトルも獲得した。
中田英寿が在籍したクラブとしても知られた。日本代表が初めて出場した'98年のフランス・ワールドカップには、韓国代表の洪明甫を含めて4人の選手を送り込んでいる。
ところが'99年、親会社の撤退によりクラブ存続の危機に立たされる。大企業の支援を受けない市民クラブとして再生し、10年もの時間をかけてJ1へ復帰した。その後はJ2とJ1を行き来しながら地力を蓄え、昨シーズンは国内3大タイトルのルヴァンカップを制した。
Jリーグが目ざしてきたものとは?
Jリーグのクラブが進むべき道とは?
サッカーが日本の文化として根付くためには何が必要なのか?
こうした質問の答えを、ベルマーレは持っている。
「Jリーグの営業マン」だった。
──ベルマーレ平塚が存続危機に見舞われたのが'99年でした。眞壁会長は同年の春に「フジタが撤退しそうだ」との話を耳にし、存続へ向けて動き出したそうですね。
「'98年シーズンに横浜フリューゲルスが消滅して、横浜マリノスに吸収合併されました。'93年の開幕から6年目で、Jリーグは創設メンバーの1つを失ってしまったのです。
'90年代後半はバブル崩壊の影響が企業のスポーツに対する向き合い方に影響を及ぼしてきた時代で、Jリーグも大きな曲がり角を迎えていたと思います。それでも、フリューゲルスだけでなくベルマーレまで無くなったら大変だと、当時の川淵三郎チェアマンをはじめとするリーグ関係者が存続に向けて力を貸してくれました」
──2000年に親会社を持たない市民クラブとして再生をはかり、翌年には総合型地域スポーツクラブへの第一歩としてビーチバレーチームを立ち上げました。
「私たちのホームタウンの平塚は、そもそもビーチバレーが盛んでした。加えて企業スポーツの廃部や休部が続き、自ら知恵を絞ってスポーツを続けていこうという機運が高まっていて、ビーチバレーと手を組むことになりました。
さらに言えば2000年は、文科省の保健体育審議会が豊かなスポーツ環境を目ざした答申をしたタイミングでもあります。『生涯スポーツ社会の実現に向けた、地域におけるスポーツ環境の整備充実』などが掲げられたのですが、それはJリーグが'96年に発表した『Jリーグ百年構想』に重なるものでした」
──百年構想が掲げた「サッカーに限らず、あなたがやりたい競技を楽しめるスポーツクラブをつくること」ですね。
「ベルマーレはお金もないのに、どうして総合型に? と言われたこともあったけれど、それがJリーグの理念なんですという話をしていきました。トップチームをいきなり強くすることはできないけれど、Jリーグの理念に向かってベルマーレが活動することで、この湘南というエリアが変わっていきますという話をしたものです。
考えてみれば、僕はJリーグの営業マンのようなものだったかもしれませんね(笑)。『この選手を獲るから来年は強くなります』といったセールストークは、一度もしたことがなかった」