松岡修造のパラリンピック一直線!BACK NUMBER
ゴールボールの天摩由貴が、ロンドン
パラに出場後、陸上競技をやめた理由。
text by
松岡修造Shuzo Matsuoka
photograph byYuki Suenaga
posted2019/05/06 08:00
ディフェンス時、顔に当たらないよう天摩さんの左腕は顔の前に。でも修造さんの顔は無防備。ボールは硬い。当たったら、痛い!
なぜ痛いボールを受けようと?
松岡 ではストレートに聞かせていただきます。なぜ由貴さんはそんなにも痛いボールを受けようと思ったんですか。
天摩 もともとは「やってみないか」と誘われたのが切っ掛けです。2020年に東京でパラリンピックが開催されることが決まって、チームの底上げ、強化をしていく段階で、選手層を厚くしようと考えたみたいで。
松岡 そもそもこの競技を知っていたんですか。
天摩 知ってました。盲学校の体育の授業でゴールボールもやるので。ただそのころ私は陸上の方に夢中でした。
天摩さんの経歴が異色なのは、高校大学と陸上競技に打ち込んできたことだ。日本大学に在学中、2012年のロンドンパラリンピックに出場し、視覚障害クラスの100m走と200m走の2種目で世界と戦った経験を持つ。
松岡 もともとは陸上に夢中だったわけですよね。陸上という選択肢はどこから?
天摩 陸上はですね、高校生の時に全国障害者スポーツ大会に出場して、そこで2位になったのが切っ掛けです。障害者の国体のような大会で、60m音競走に出たんです。ゴールの方で音が鳴っていて、そこに向かって走るんですけど、2位だったのが悔しくて悔しくて。
松岡 なぜダメなんですか。2位だったら良いじゃないですか。
天摩 負けず嫌いなんです。自分より速く走れる人がいるんだったら、私はその人よりも速く走りたいと思ってしまう。それがきっかけで陸上部の練習に通うようになりました。もしもそこで1位を獲っていたら、陸上はやっていなかったと思います。
松岡 じゃあ感謝しないとですね。その1位を獲った人に(笑)。その決断が今の人生につながっているんですから。
天摩 だけど、私は、そのとき2位なんですよ。負けたんです。感謝とかよりも悔しさしかないです。
松岡 うわあ……相当な負けず嫌いですね(笑)。
パラリンピックを目指すきっかけ。
松岡 では、順に聞いていきます。陸上でパラリンピックという目標はどこからきたんですか。
天摩 高校3年生のときに北京パラリンピックがあって、それにクラスメイトの木村(敬一)くんが競泳で出場したんです。彼から色んな話を聞くうちに、自分も行ってみたいなって。
松岡 そこから猛特訓が始まったわけだ。
天摩 でも、ちょうど高校を卒業するタイミングで、大学の数学科に進学することが決まっていたんですね。視覚障害で陸上をするには伴走者が欠かせなくて、大学でそういった方が見つかるかどうかが重要でした。