JリーグPRESSBACK NUMBER
バブルと、Jリーグと、W杯。
平成はサッカーの時代だった。
text by
川端康生Yasuo Kawabata
photograph byAFLO
posted2019/04/11 17:00
1993年の開幕から平成を駆け抜けたJリーグ。令和の時代はどんな発展を見せるか。
バブル期だからできたW杯招致。
プロリーグだけではない。この平成元年、日本サッカーはもう一つ、大胆な挑戦を始めている。「ワールドカップ招致」である。
この時点ではサッカー協会内のごく一部による小さな招致活動。それでもFIFAに乗り込み、立候補の意思表示をしたのだ。
言うまでもなく、このとき日本代表はまだワールドカップに出場したことがない。それどころか川淵三郎(当時日本リーグ総務主事)が「競技力ない、人気ない、スタジアムない」と自虐的な表現でしばしば振り返っていた通り、「出場」はおろか、「開催」など夢のまた夢という立場である。
にもかかわらず、そんな無謀な意思表示をFIFAは極めて好意的に受け止めた。なぜなら当時、大会スポンサーの半数近くを日本企業が占めていたからだ。
付け加えれば、国内でも愛知県の刈谷市をはじめ20都市が開催都市となることに前向きな姿勢を示している。スタジアム建設が必要にもかかわらず、だ。
やはりバブル期だったからこそである。
史上最高の“サッカーバブル”。
バブルをエネルギーに新たな時代へ踏み出した日本サッカーは、平成5年(1993年)にJリーグを創設。“サッカーバブル”とさえ呼ばれる現象を巻き起こす。
その過熱ぶりは一過性のブームに過ぎなかったが、それでも「競技力も人気もスタジアムも」以前とは比べようもないほど向上。“日本サッカー史上最高値”と言いたくなるほどの成功を収めた。
一方で、日本経済のバブルはこのときすでに崩壊していた。天井知らずで高騰していた株価は、スタジアムにチアホーンが鳴り響く頃には平成元年の半値に下落。「山手線の内側だけでアメリカ全土が買える」とまで言われた不動産価格も暴落していた。
その対比がもっとも鮮明だったのは平成9年(1997年)だ。
この年、北海道拓殖銀行をはじめ、膨大な不良債権を抱えた金融機関が相次いで破綻。四大証券の山一證券も自主廃業に追い込まれる。
「私らが悪いんであって、社員は悪くありませんから」と涙ながらに言葉を絞り出す社長の姿は、平成を振り返る番組で必ず取り上げられるバブル崩壊の象徴的シーンである。
そして、そのとき日本サッカーは……といえば、歓喜の真っ只中にいた。
アジア第3代表決定戦、野人・岡野のVゴール……そう、「ジョホールバルの歓喜」は、山一證券社長が号泣会見を行うわずか1週間前のことだったのである。
創業百年を誇り、国内外に167の支店を持つ大企業が、バブル崩壊に飲み込まれ、悲痛な叫びを挙げた同じとき、バブル期にプロ化を構想し、Jリーグ設立からわずか4年の日本サッカーは、歴史上初めてのワールドカップ出場を勝ち取り、歓喜の涙を流していたのだ。
失速する日本経済を尻目に、サッカー界は活況に沸き立っていた。