サッカー日本代表PRESSBACK NUMBER
カタール移籍初ゴールから3年前。
手倉森誠が中島翔哉を信じた理由。
text by
占部哲也(東京中日スポーツ)Tetsuya Urabe
photograph byTakuya Sugiyama
posted2019/03/08 11:30
五輪切符をかけた戦いから3年。さらに階段を駆け上がるため、中島は再びカタールの地でサッカーを楽しむ。
中島の未来を確信していた手倉森監督。
リオ五輪世代を率いた指揮官の口癖は「可能性を信じる」。
小兵ドリブラーは、一度ボールを持つと離さず、突っ込む。監督によっては、独善的、利己的とも受け取る「負」の要素にもなる個性だ。それでも、手倉森は確信を持って未来絵図を描いた。手に余る才能。だから、手を大きくする時間、経験を与えた。成長した手はそれを受け止められるようになった。
運命を変えたイラン戦後、中島はこう言っていた。
「(試合では)90分で何もできなかった。結果を出せないときも呼び続けてくれた監督と五輪で一緒に戦いたい」
小さな可能性を信じ、萌芽を待ってくれたことに感謝した。そして、こう続けた。
「理想のプレーに近づきたい。楽しむっていうのは『楽(らく)』をするのとは違う。サッカーを楽しむためにもやることはたくさんある」
「楽しくプレー」するためのコソ練。
期待に応えるためのコソ練(こっそり練習)も欠かさなかった。当時のクラブチームでは居残り練習が禁止のため、公園でボールを蹴り、遠征のバッグには鉄アレイを隠し持ったエピソードは今や有名だ。
「楽しくプレー」するための鍛錬だから「努力」とは決して言わないサッカー小僧だ。
あれから3年。変化の中に美しさはある。森保一監督率いるA代表でも、攻撃の起点、仕上げ役として10番を背負う。その存在感の大きさは、ケガで出場できなかったアジアカップで、皮肉にも浮き彫りになった。
もう、ボールを運んでは取られ、仕掛けては奪われ、削られた姿はない。現代サッカーのアタッカー像に近づいている。