ぼくらのプロレス(再)入門BACK NUMBER

真面目な男が「クレイジー坊主」。
いつも体を張った飯塚高史の引退。 

text by

堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

PROFILE

photograph byAFLO

posted2019/01/18 10:00

真面目な男が「クレイジー坊主」。いつも体を張った飯塚高史の引退。<Number Web> photograph by AFLO

新日本の名脇役として長年戦い続けた飯塚高史。ヒール転向は昔からのファンに衝撃を与えた。

闘魂三銃士の全盛期の中で。

 飯塚はそんな周囲の期待に応えるべく、サンボの全ソ連王者に対し、張り手、ドロップキック、ストンピングなど、ヤングライオンそのままの闘い方でがむしゃらに立ち向かっていった。最後はヒザ十字固めで敗れたものの、その真っ直ぐな闘いぶりは、冬の時代の新日本にもやがて春が訪れることを感じさせた。

 この一戦が評価され、飯塚は2カ月後には長州力のパートナーに抜擢され、IWGPタッグ王座を奪取。そして'91年にはヨーロッパ遠征を行い、翌'92年3月に凱旋帰国した。

 しかし当時の新日本は冬の時代を脱し、2年先輩の闘魂三銃士がメインイベンターとして確固たる地位を築き、そこに馳浩、佐々木健介が続く'90年代の黄金期。飯塚がトップに食い込むことはできなかった。

 '93年には野上彰(現AKIRA)とタッグを結成。J.J.ジャックス(ジャパニーズ・ジョリー・ジャックス=日本の陽気な男たち)と名付けられ、現在のSHO & YOHのようなアイドルタッグとして売り出されたが、性格的に地味で真面目な飯塚が“陽気な男たち”を演じるには、あまりにも無理があり、ブレイクすることはなかった。

小川直也に立ち向かった男。

 その後は、長く中堅の“隠れた実力者”という地位に甘んじていたが、そんな飯塚が次に注目されたのは、2000年のこと。

 '99年の1.4東京ドームで、新日本のエース橋本真也が、小川直也の“セメント暴走”により5万人の大観衆の前で潰されるという大事件が勃発。これを受けて、翌2000年の1.4ドームで飯塚は橋本のパートナーとして、猪木率いるUFOの小川直也&村上和成と対戦した。

 ここで飯塚は当時の“最強の外敵”小川直也にも果敢に立ち向かい、最後はのちに代名詞となるチョークスリーパーで村上に勝利。新日本ファンの溜飲を大いに下げた。

 飯塚は続く4.7東京ドームで、今度はシングルで村上に勝利。秋のG1タッグリーグでは永田裕志とのコンビで初優勝をはたし、プロレス大賞では初めて技能賞を受賞。旧リングネームの“飯塚孝之”としての絶頂期がこの頃だっただろう。

【次ページ】 天山救出からの裏切り。

BACK 1 2 3 4 NEXT
#新日本プロレス
#飯塚高史

プロレスの前後の記事

ページトップ