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松岡修造が訊く! パラ卓球・吉田信一、
崖っぷちだらけの上京物語。 

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松岡修造

松岡修造Shuzo Matsuoka

PROFILE

photograph byYuki Suenaga

posted2018/12/09 08:00

松岡修造が訊く! パラ卓球・吉田信一、崖っぷちだらけの上京物語。<Number Web> photograph by Yuki Suenaga

働きながら、50歳を超えた現在も、吉田信一選手は世界トップレベルのプレーを維持している!

「バスケは見ただけで断念しました」

松岡「それにしても……なぜ、卓球だったんですか。障害を負ってから卓球を始めたと聞きました」

吉田「私は福島の出身で、1995年に福島国体が開催される前の年に、たまたま何かスポーツをやってみたら、と誘われたんです。選手強化事業のような取り組みで、参加すれば交通費も出る、と言われまして」

松岡「おいくつの時ですか」

吉田「28歳。17歳でバイク事故を起こして車椅子生活になりましたが、そのあと10年くらいはプラプラしてて……。家の仕事とかを手伝ったりしてましたけど、スポーツはほとんどやっていませんでした。で、とりあえずスポーツ体験会に行ってみたんです」

松岡「そこで、いろいろと体験してみたんですか?」

吉田「いえいえ。たとえばバスケは見ただけで断念しました。あんなハードなのは僕には無理だし、またクビを痛めてしまいそうで。車椅子テニスも、僕はあんなにくるくる軽快にコートを駆け回れない。で、陸上はマラソンも短距離も疲れるし(笑)。でも卓球はただ座ってボールを打ち返しているだけだったので、ラクそうじゃないですか。そこで始めたんです」

松岡「国体には出場できたんですか?」

吉田「いえ、結局出られませんでした。そりゃそうですよね。あの当時でもやっている人はいて、経験者には全然歯が立ちませんでした」

松岡「そこでやめようとは思わなかったのですか?」

吉田「もともとはそう思っていたんですけど、なぜかそこで負けず嫌いの虫がウズウズしちゃって。なんで同じ条件でやっているのに負けるんだと。もっと練習して強くなりたいと思っちゃったんです。それに卓球って、やればやるほど奥が深くて、終わりがないことがわかってくる。どんどんのめり込んでいきました。それで2、3年したら福島で1番になって、今度は関東大会、そこではベスト8。まだまだ上がいる。強くなりたい。そこで、そのためには強い人がいる東京に行くしかない、と思ったんです」

松岡「東京は競技者が多いんですね」

吉田「そうです。それに、日本トップクラスの力がついたとしても、自分より障害が軽いクラス4や5の選手には負けちゃいます。実際大会では対戦しないけど、強い人と練習した方が絶対に自分も強くなれる。東京にはクラス4、5で僕より強い選手が何人もいましたから、それもあって上京を決めました。車に家財道具を全部積んで、親父に『俺、10日間だけ東京で仕事を探してくる』って言い残して。職探し、必死でしたよ。東京に着いたら、飯田橋のハローワークに直行しましたから」

【次ページ】 高校中退でも大手の系列会社へ。

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