松岡修造のパラリンピック一直線!BACK NUMBER
松岡修造が訊く! パラ卓球・吉田信一、
崖っぷちだらけの上京物語。
text by
松岡修造Shuzo Matsuoka
photograph byYuki Suenaga
posted2018/12/09 08:00
働きながら、50歳を超えた現在も、吉田信一選手は世界トップレベルのプレーを維持している!
高校中退でも大手の系列会社へ。
松岡「すみません、1つ質問。その時は、さすがに髪は黒く染めて?」
吉田「黒いスプレーで軽く(笑)。今はこんな金髪ですけど」
松岡「ハハハ。ちゃんと染めたんですね。トレードマークの金髪はどうして?」
吉田「ただの若作りです(笑)。実は中学まで坊主だったから、その反発もあって。ぜんぶ自分で染めてるんです」
松岡「こだわりがあるんですね。それで……仕事、見つかりました? 世界で一緒に戦おう、と言ってくれる会社が」
吉田「見つかりました。でも、上京したころ、自分の中に世界を目指そう、という気持ちはなかったんです。『東京で働けるところが見つかれば、東京で卓球ができる!』、という、ただそれだけでした。職場が見つかったときは本当に嬉しかったですね。そもそもぼくは事故もあった関係で高校を中退してますから、履歴書は中卒。それなのに、大手のリクルートのグループ会社が採用してくれました。田舎の親父でも名前を知っていて、喜んでくれましたから」
松岡「面接担当の方は、吉田さんの何を買ってくれたんでしょう」
吉田「わかりません。でも、最初年齢制限で断られて、それでも話だけでも聞いて下さいと売り込みました。『仕事は覚えます。やる気はあります』──ただそれだけでした」
吉田さんの上京物語は、こうして始まった。でも、なかなか練習に打ち込める環境が整わなかったようだ。それどころか……。
松岡「実際に仕事、どうでした?」
吉田「仕事、がんばりましたよ。いつも帰宅するのは22時過ぎ。定時まではアルバイトさんの指導、それから自分の仕事をやるので残業が多くなって」
松岡「あれ? 卓球のために上京したのに、それじゃあ何もできない」
吉田「この時は確かに土日しかできなかったです。でも、福利厚生はしっかりしていました。自分が福島にいた頃は、障害者の職場はまだそこまで考えられていなかったので、車の中で簡易トイレを使ったり、弁当を食べたりしていました。そういうところが一番気になっていたんですけど、それに比べて職場の環境はずいぶんよかったです。それに、3DKのバリアフリーの社宅も用意してくださったので、部屋に卓球台を入れました。で、球を自動で出してくれる卓球マシンを買って、ひたすら打ち合ってました」
松岡「マシンと? だったら福島でも良かったじゃないですか(笑)」
吉田「そうですが、福島より東京の仕事の方が稼ぎがよいですからね。たくさん練習するだけでなく、もっと上へ行くためには、国内遠征もしたいんです。そのための費用が必要でしたから」