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スピードスケートに不可欠の土台、
開西病院と十勝地方の幸せな関係。
text by
矢内由美子Yumiko Yanai
photograph byKyodo News
posted2018/11/23 11:00
11月16日に行なわれたW杯の女子500mで3位に入賞した辻。帯広でW杯が行なわれるのは4年ぶり5回目。
スポーツは体も心も健康に。
古き良き思い出を語る細川理事長は、高木姉妹と同じ北海道十勝地方の幕別町出身。岩手医大を卒業後、北大医学部付属病院の整形外科勤務を経て、37歳だった'96年に帯広市内に開西病院を開いた。病院は100床からスタートし、現在は約2倍の196床。細川理事長は整形外科医として脊椎を専門とし、病院全体で年間約1300例の手術を行なっている。
大学時代は「盛岡コメット混声合唱団」に入って活動していたが、当時は新日鉄釜石ラグビー部の全盛期。同部の主将を務めていたプロップ洞口孝治('99年逝去)に顔が似ているということで誘われ、盛岡市の社会人チームでラグビーをやった。
チームには黒沢尻工業OB、そして秋田工業OB、盛岡工業OBなど花園での優勝経験のある選手がおり、7部からのスタートだったが3、4年間で6部、5部、4部へと上がった。
「私は下手だったけど、周りがうまくてどんどん強くなりました。当時の仲間とは今も繋がりがあります。どんなスポーツであろうとスポーツは楽しい。体も心も健康になる。スポーツとは本当に良いものだと思っています」
高校卒業後、受け皿がない。
このような考えを持っていた細川理事長が、帯広・十勝地方のスケート少年団などで鍛えられてきた子どもたちが高校を卒業した後に地元を離れ、五輪に出るような年齢になったときには帯広にはもういないという状況に忸怩たる思いを抱くのは自然なことだった。
ただ、原因そのものは明らかだった。スケート選手が高校を卒業した後の受け皿が地元になかったのだ。将来性が豊かな選手は関東の強豪大学や、大手企業が持つスケート部に進んでいったが、それは当然と言えば当然だった。
「帯広を出た子どもたちが『帯広』の冠を持っていない。自分としてはそのことについて、これで良いのかと思っているところがあったのです。高校や大学を卒業した後にスピードスケート選手を受け入れる企業、生活をきちんと保障してあげられる企業がないのはいかがなものなのだろうかと」