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和製ロナウド矢野隼人の引退後10年。
自らの挫折を伝えるS級指導者に。
text by
海江田哲朗Tetsuro Kaieda
photograph byTetsuro Kaieda
posted2018/10/03 07:00
帝京高、ヴェルディで大きな注目を集めた矢野隼人。彼は今、育成年代の指導者としてキャリアを積んでいる。
世代別の常連・山田寛人を育成。
矢野は地道に経験を重ね、ホペイロ刈谷は技術を磨き、頭を使ってプレーするテクニカルな集団の特色を強めていく。「これが、あの身体能力で勝負していた矢野くんのチームなの?」とあからさまに驚かれることもあった。
そして、その先には大きな才能との邂逅が待っていた。
「体験会にきた選手のなかで、ひとりだけ別格でした。ファーストタッチを見た瞬間、これはスペシャルだと。とにかくボールタッチが柔らかく、顔も上がっている。まるで(ジネディーヌ・)ジダンみたいだと思ったのを憶えています」
当時11歳、小学6年の山田寛人(現セレッソ大阪)である。山田は刈谷でプレーすることを選び、やがてU-15日本代表を皮切りに年代別代表の常連へと成長していった。
「寛人はストライカーとしては育てていないんですよ。当時のチームに点を取れる選手がいて、2列目から飛び出すセカンドアタッカーの位置づけ。意外性のあるシュートやラストパスなど、豊かなアイデアを発揮していましたね。唯一の課題は走れないことだったんですが、攻守における要求の水準を高めることでだんだん走力がついてきて、中3になってからはスピードがぐんと上がった」
サッカー小僧は勝手に伸びていく。
Jクラブのアカデミーと対戦しても引けを取らず、そのパフォーマンスは夏のJCYインターシティカップ(U-15)で セレッソ大阪強化部の目に留まった。
「ほぼ即決だったはずです。セレッソ側の熱意に加え、育成の豊富な実績、充実した施設を見学し、『ここならプロになりたい自分の夢を叶えてくれる』と話していました」
3年間、矢野は山田とどのような日々を過ごしたのだろうか。
「基本的には成長の邪魔をしないこと。寛人のようなサッカー小僧は邪魔をしなければ勝手に伸びていきます。中学年代は少し幅を持たせ、伸びしろを残して次のカテゴリーに受け渡すのが大事だということも意識しましたね」