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和製ロナウド矢野隼人の引退後10年。
自らの挫折を伝えるS級指導者に。
posted2018/10/03 07:00
text by
海江田哲朗Tetsuro Kaieda
photograph by
Tetsuro Kaieda
矢野隼人の名を記憶に留めている人はどれほどいるだろうか。
1998年、帝京の超高校級ストライカーとして注目を集め、全国高校サッカー選手権大会で準優勝。1999年、高3で日本サッカー協会強化指定選手(現JFA・Jリーグ特別指定選手)となり、ヴェルディ川崎(現東京ヴェルディ)でJリーグデビュー。2000年、V川崎に加入し、いきなり9番のユニフォームを渡された。
海外サッカーがいまよりずっと強い憧れとロマンをもって語られていた時代、そこかしこに何人もの和製〇〇が生まれた。矢野はその風貌とプレースタイルからブラジル代表の怪物ストライカーであるロナウドに喩えられ、盛んにメディアで取り上げられた。
ほとんどはうたかたの夢と消え、矢野もまたそのひとりとなる。
Jリーグ通算11試合0得点。2002年、東京Vで現役引退を決めた矢野が残した足跡のすべてだった。
「刈谷から全国で通用する選手を」
以降、矢野の歩みは紆余曲折あった。サッカー界から完全に離れて中古車のセールスマンとなり、2007年JFLのFC刈谷で現役復帰、しかし腰を痛めて2年後に2度目の引退。ほぼ同時に立ち上げられた中学生年代の街クラブ、ホペイロ刈谷(現刈谷JY)で指導者の道に入った。
「一度はサッカーを嫌いになって辞めたんです。だから、未練はありませんでした。刈谷で現役復帰し、残念ながらいい結果を残せませんでしたが、この選択に後悔はないですね。それまで大人の言葉に従ってサッカー人生を歩んできた僕が、初めて自分で決めたことでしたから。
己の力で這い上がり、Jリーグの舞台に戻りたかった。今後は育成年代のスペシャリストになるのが目標です。刈谷から全国で通用する選手を育てたい」
そう語っていた冬の日から、およそ10年の歳月が流れている。