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藤沢和雄調教師とダービーの再遭遇。
レイデオロはまだ終わっていない。
text by
平松さとしSatoshi Hiramatsu
photograph bySatoshi Hiramatsu
posted2018/09/28 16:30
馬たちを優しい眼差しで見つめる藤沢和雄調教師。
2002年、13年ぶりにダービーに挑戦。
そんな中から名牝シンコウラブリイや重戦車タイキブリザード、世界を制した名マイラーのタイキシャトルら、マルガイの駿馬が続々と生まれた。
しかし、当時、外国産馬にダービーの門扉は開かれていなかった。いくら勝ち進んでも、出走権を与えてもらえなかったのだ。
ところが、サラブレッドの世界は時間の流れが激しい。やがて大きく時代は変わる事になり、外国産馬にもダービーの出走枠が与えられる事になった。
また、ウッドチップコースの導入など、ハード面が整備されただけでなく、調教技術の進歩や医療技術の発展もあって、昔よりもリタイアする馬が減るようになると、自然と、早目に始動できる馬も増えていった。
そのことで、以前は「3歳馬には時期尚早」と感じたダービーの舞台も、「対応可能な馬がグンと増えた」。
藤沢も、時代に対応するために舵を切る。2002年、13年ぶりに“ロンドンボーイの禁”を破ったのだ。「改めて日本ダービーに挑戦する」と早々に宣言し、事実、いきなり4頭もの管理馬を晴れ舞台に立たせてみせた。
結果は、その中からシンボリクリスエスが2着し、マチカネアカツキが3着と、善戦してみせた。
さらに翌'03年、今度はゼンノロブロイで挑戦。またも2着と好勝負を演じた。当時の藤沢は「これならいつか勝てる……」と感じたそうだ。
出すだけ、では馬がかわいそう。
しかし、そこからが長かった。
'13年までの間に計18頭を送り込んだが、先頭でゴールを駆け抜ける馬はただの1頭もいなかった。
藤沢にとっては思わぬ苦戦だったかもしれない。でも、だからといって、いたずらに挑戦するような事はしなかった。収得賞金的に出走可能な馬でも「勝ち負け出来るようでないなら出走させない」という信念は貫いた。
「ダービーだからといって出すだけ、走らせるだけでもなどと、馬にかわいそうな事はしません」