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藤沢和雄調教師とダービーの再遭遇。
レイデオロはまだ終わっていない。

posted2018/09/28 16:30

 
藤沢和雄調教師とダービーの再遭遇。レイデオロはまだ終わっていない。<Number Web> photograph by Satoshi Hiramatsu

馬たちを優しい眼差しで見つめる藤沢和雄調教師。

text by

平松さとし

平松さとしSatoshi Hiramatsu

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photograph by

Satoshi Hiramatsu

 藤沢和雄が厩舎を開業したのは1988年。その翌年の'89年には早くも日本ダービーに出走馬を送り込んでいる。

 ダービーと同じ舞台、東京競馬場の芝2400mの青葉賞で2着し、勇躍大舞台に駒を進めたのは、ロンドンボーイという若駒だった。

 当時24頭立てで行われた3歳頂上決戦で、ロンドンボーイは10番人気。しかし、若き藤沢は、大きな期待を胸にこの馬を送り込んだと言う。

「良い勝負が出来ると信じていたからこそ出走させました」

 しかし、その期待は厳しい現実に跳ね返された。

 22着。

 青息吐息でレースを終えたロンドンボーイを見て、後のリーディングトレーナーは心を痛めた。

「この時期の3歳馬に、東京競馬場の2400mという条件は厳し過ぎる。私のエゴでかわいそうな事をしてしまった……」

 以降、ホースマンなら誰もが目指す日本ダービーに背を向け続けた。5月の最終日曜日は、藤沢にとって特別な意味を持つものではなくなったのだ。

ダービーに出られない外国産馬とともに。

 さらに、大規模なセリがなく、庭先取引が当たり前だった時代背景も、藤沢からダービーを遠ざけた。

「北海道の牧場を回っても、若くて実績もない私のような調教師に馬を預けてくれる人はいませんでした」

 良い馬だなと思っても、『この血統はいつも○○調教師のところに入るから』『この馬はもう××オーナーが買う事になっているから』と言われ、断られてばかり。そこで彼は、外国の牧場に目を向けた。

「幸い、シンコウさんやタイキさんが良い外国産馬をたくさん預けてくれました」

 いわゆる“ガイシャ”とか“マルガイ”と呼ばれた外国産馬が強かった時代。しかし、藤沢が海の向こうからやってきた馬を手掛けたのは、半ば仕方ない理由からだったのであり、何も積極的に海外へ目を向けていたわけではなかったのである。

【次ページ】 2002年、13年ぶりにダービーに挑戦。

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