フランス・フットボール通信BACK NUMBER
アフリカを愛した仏人名監督が逝去。
トルシエ、ハリルに通ずる偉大なる魂。
text by
フランク・シモンFrank Simon
photograph byAlain de Martignac/L'Equipe
posted2018/05/29 16:30
南仏出身で陽気な性格だったアンリ・ミシェルは、アフリカの人々にすぐに溶け込むことができたという。
モロッコ代表監督としてW杯、CANで大きな功績。
複雑ではあったが中身も濃かった7カ月をカメルーン代表とともに過ごした後、ミシェルはフランスに帰還した。散々な思いは味わったが決して挫けてはいなかった。そして1年の休養を経て再び地中海の対岸――今度はモロッコへと向かったのだった。
師と仰ぐフランスの名将ミシェル・イダルゴは、モロッコのサッカー協会のプロジェクト実現のために1995年7月から現地に居を構え、すでに4年半を過ごしていた。ミシェルの代表監督就任はそのサポートの意味も兼ねていた。
'96年アフリカネーションズカップ(CAN)出場を逃したモロッコの次なる目標は'98年フランスワールドカップだった。
ラバに腰を据えたミシェルは、サベルやエルハドリウィ、バシール、シポといった無名の若い才能を起用しながら、根気強くチームを再建した。その結果、“アトラスのライオン”(モロッコ代表の愛称)はフランスワールドカップへの出場権を獲得し、同じ年におこなわれたCANでもベスト8進出を果たしたのだった。
フィジカルコーチとして2年を共にしたロジェ・プロポが、大会前後の雰囲気をこう語っている。
「彼は人間味あふれる態度でサッカーと向き合った。彼がもたらした親密さは、とりわけチームのリーダーたちに大きな影響を与えた。だから準備はもの凄くスムーズに進んだよ。
敗退が決まった後も、僕らはエクス・オン・プロバンス近郊のキャンプに居残っていた。ひと月半も一緒に時間を過ごした後では、別れるのがとても辛かったからね」
その親密な雰囲気も、2000年2月にガーナとナイジェリアの共同開催でおこなわれたCANでグループリーグを突破できずに、尻切れトンボで終わってしまったが、それでも彼はモロッコに強い印象を残した。だからこそ'07年8月に、2度目の代表監督に招聘されたのだった。
マリ代表を率いて惨敗したことも……。
アフリカとの関係はさらに続く。
UAE代表とアリス・テッサロニキ(ギリシャ)の監督を短期間務めた後、ミッキーが次に向かったのはチュニジアだった。
2001年1月のことで、使命は2002年にマリでおこなわれるCANと初のアジア開催となった日韓ワールドカップであった。
だが、マリでの結果は悲惨だった。
“カルタゴのイーグル”(チュニジア代表の愛称)は、1得点もあげられないままグループリーグ敗退。深いダメージを受けたミシェルは、アシスタントコーチであったアルベール・ルストが解任された直後、日韓ワールドカップのはじまる10週間前に自ら代表監督を辞したのだった。