フランス・フットボール通信BACK NUMBER
アフリカを愛した仏人名監督が逝去。
トルシエ、ハリルに通ずる偉大なる魂。
text by
フランク・シモンFrank Simon
photograph byAlain de Martignac/L'Equipe
posted2018/05/29 16:30
南仏出身で陽気な性格だったアンリ・ミシェルは、アフリカの人々にすぐに溶け込むことができたという。
ドログバ中心のチームでCAN決勝戦に進出!
再びモロッコに戻ったミシェルは、クラブチームであるラジャ・カサブランカの監督に就任し、ここで唯一のクラブタイトル(2003年、CAFカップ)を獲得した。
さらにロベール・ヌザレの後を継いでコートジボワール代表監督に就任(2004年6月~2006年7月)すると、同代表を初めてワールドカップ本大会出場へと導いた。
そして、このワールドカップが、彼にとっての最後の大きな国際大会となった。
監督として4度のワールドカップ出場決定まで成し遂げたのはフランス人として最多であり、世界を見渡しても上回るのは異なる国から5回連続出場のボラ・ミルティノビッチしかいない。
騒乱の絶えないコートジボワールで、ミシェルは「アカデミシャン(フランス人のジャンマルク・ギウーがアビジャン近郊のソルベニに設立したアカデミー出身の選手。5年間で育成した55人から、10数人のコートジボワール代表を輩出した)」を中心にチームを編成した。彼らを支えたのがキャプテンとして絶大な存在感を発揮したディディエ・ドログバだった。
精神的支柱であったアシスタントコーチのママ・ウワタラを交通事故で亡くしながら、エジプトでおこなわれたCAN2006でコートジボワールは決勝に進出。PK戦の末に地元エジプトに敗れたのだった。
「私は間違いを犯した。申し訳ない」
とはいえ当時チームのスタッフであったアラン・グアメネは、ミシェルに対してあまりいいイメージを持ってはいなかった。彼は告白する。
「まだ若手コーチだった僕は、経験豊富な監督の傍で学ぶことに飢えていた。ところが周囲の人間が、僕が彼のポジションを狙っていると信じ込ませるものだから、彼は僕に何も伝えようとはしなかった。
ドイツワールドカップのグループリーグ最後のセルビア・モンテネグロ戦で大会初勝利をあげた後、僕らはホテルに集まった。そこで人間同士の会話を交わしたんだ。彼は僕にこう言った。『私は間違いを犯した。申し訳ない。もっと君の話を聞くべきだった』と」