フランス・フットボール通信BACK NUMBER
アフリカを愛した仏人名監督が逝去。
トルシエ、ハリルに通ずる偉大なる魂。
text by
フランク・シモンFrank Simon
photograph byAlain de Martignac/L'Equipe
posted2018/05/29 16:30
南仏出身で陽気な性格だったアンリ・ミシェルは、アフリカの人々にすぐに溶け込むことができたという。
協会やクラブのボスと堂々と喧嘩したミシェル。
その後はアル・アラビ(2006年、カタール)とエジプトのザマレク(2007年1~8月と2009年8~11月の2度)と南アフリカのマメロディ・サンダウンズ(2008年11月~2009年3月)、ラジャ・カサブランカ(2010年)とミシェルは再びクラブチームの指揮を執った。そして指導者としてのキャリアを終える前に指揮したのが赤道ギニア(2010年12月~11年12月)とケニア(2012年8月~12月)であった。
サミル・アジャムはそのうちの5回をアシスタントコーチとして行動をともにしている。
日本での登録名はサミア。
日本代表でフィリップ・トルシエのもとでコーチとして働き、その後は湘南ベルマーレの監督にも就任したあのサミアである。彼が当時のミシェルを語る。
「南アフリカでは、クラブの会長で富豪のパトリス・モゼッペが推薦した選手を、アンリは使おうとしなかった。ボスの気まぐれに付き合う気は彼にはさらさならかったから、次に起こったのは僕も(トルシエ監督のもとで)南アフリカ代表時代に経験したシナリオだった。
彼らはサポーターを集めて騒ぎを起こさせた。そこにトラック一杯の兵士が現れて鎮静化すると、試合後に彼に向かってこう言った。『これ以上あなたの身の安全は保障できません』と。もちろん監督を追いだすためのプレッシャーさ」
地元開催のCAN(ガボンとの共催)を直前に控えた赤道ギニアでの出来事も忘れられないとサミアは言う。
「われわれは前年に多くの選手を起用してチームを作りあげた。ところが大会の2週間前にすべてが無駄になった。
スポーツ大臣のもとに23人の選手リストを携えていくと、彼はわれわれの鼻先に自分の作ったリストを突きつけた。
アンリは『それでは戦えない。こんな扱いを受けるために、ここでこれほど長い時間をかけて働いたのではない』と怒りをぶつけた。それだけ言うと彼は立ち上がって大臣の部屋を出た。それで終わりだった」
幸福な生涯かどうかはわからない。
ただ、他に比類のない生涯であるのは間違いないだろう。