フランス・フットボール通信BACK NUMBER
アフリカを愛した仏人名監督が逝去。
トルシエ、ハリルに通ずる偉大なる魂。
text by
フランク・シモンFrank Simon
photograph byAlain de Martignac/L'Equipe
posted2018/05/29 16:30
南仏出身で陽気な性格だったアンリ・ミシェルは、アフリカの人々にすぐに溶け込むことができたという。
アフリカでの長く困難な冒険の始まり。
1994年1月10日、ミシェルはカメルーン代表監督に就任した。
パリ・サンジェルマンの監督解任からおよそ1年半、彼のもとに興味深いオファーはなかなか届かなかった。パリのポルト・ド・サンクルーの名高いブラッスリー『レ・トロワ・オビュス』で彼をよく見かけたのもこの頃だった。
アメリカワールドカップ出場を決めていたカメルーンに彼を招聘したのは、実業家でカメルーン協会の技術委員長でもあったオメル・ヌグエワであった。幾度となく裏切りを味わったフランスから遠く離れたカメルーンの首都ヤウンデのモンフェベホテルで、ミシェルの新しい生活が始まったのだった。
新たな人生は“ムファンデナの洗面器”の別名を持つ「アマドゥー・アイジョ・スタジアム」で始まった。42歳のロジェ・ミラが国内リーグ復帰を果たしたチームであるトネール・ヤウンデとキャノン・ヤウンデのダービーマッチの熱狂が冷めやらぬ日曜の午後に、41人の技術委員たちの前でミシェルは契約に署名したのだった。
これこそは、ボーナスやチーム内部の問題で揉めに揉めたアメリカワールドカップにまで尾を引くことになる数々の厄介な書類のひとつだった。
代表から外された選手に空港で殴られる。
アメリカワールドカップでのカメルーンは3試合を戦い1分け2敗。ロシアには1対6という屈辱的な敗北を喫した。
大会でストライカーを務めたエマニュエル・マボアンケサックが興味深いエピソードを語っている。それは飛行機に搭乗する直前のオルリー空港(パリ)で起こった。
「アンチル諸島での合宿に向かう便を待つ間、僕らはロビーでおしゃべりをしていた。そこに選手リストに載っていないジャンクロード・パガルが現れた。彼は外された理由を尋ねたが監督は答えなかった。するとパガルは監督の顔を思いきり殴ったんだ。
アンリは何もやり返さなかった。大会の間中、彼はこの事件のことを黙っていたんじゃないかな。状況がどんどん悪くなっていっても、彼は忍耐強く僕らを鼓舞し続けた。怒りを爆発させるのを見たことがないよ」