Number ExBACK NUMBER
杉本清×草野仁×井崎脩五郎が大集合!
平成のダービーを外れ馬券で振り返る。
text by
薦田岳史(Number編集部)Takeshi Komoda
photograph byTakashi Shimizu
posted2018/05/21 08:00
平成時代の日本ダービーを語り尽くした(左から)井崎脩五郎、杉本清、草野仁。
内枠から30番発走で「河内のバカ!」。
――当時のダービーは24頭立てでしたから枠順も今より更に重要だったのではないですか。
杉本 そうですね。でもさらに昔は28頭立てでダービーをやっていた時代もありましたから。どのダービーかは忘れましたが、河内洋騎手がダービーで1か2の枠を引いたそうです。ところがゲートが開く前に馬が飛び出して、大外の30番発走になってしまった。30番枠だとスタンドにいるお客さんの声もすぐ近くで「河内のバカ野郎!」って怒鳴られたと言ってました。
草野 今は18頭立てですから、だいぶ様子も変わってしまいましたね。
「テレビ馬」やアイネスフウジン。
杉本 28頭の馬が一斉にスタートするのは壮観で、今でも忘れられないですね。
井崎 必ずスタートからビュンビュン飛ばす「テレビ馬」がいましたね。
草野 いました、いました。ダービーに出走することだけでも名誉なことだから。当時は、明らかに能力がトップクラスより劣る馬もダービーに出てきた。府中の2400mを正直に走っても勝ち目はない、ならばせめて存在感を見せてほしい。そこで、思いっきり先行させて、テレビで名前を言ってもらおうという玉砕戦法をとる馬が必ずいた。
井崎 懐かしいなあ。馬主さんがダービー当日、知り合いを集めて「ほれ、今、先頭にいるのが俺の馬!」とか、大声で自慢しててね(笑)
草野 いい時代でしたね。ウイナーズサークルの翌年のダービーはアイネスフウジンが勝って、ナカノコールがおきました。
私は競馬中継の実況に関しては杉本さんの直系の弟子で、昭和50年の菊花賞から関西でGIレースを担当していたんです。関西にいながらダービーの取材をやれと言われて、東京で初めて取材したのが「狂気の逃げ」と言われたカブラヤオーが勝った、同じ年のダービーでした。アイネスフウジンはカブラヤオー以来15年ぶりの逃げ切り勝ちで、馬券を獲った人も外れた人もみんなで、スタートからゴールまで必死に頑張ったこの馬を祝福しようという雰囲気だった。それがあの「ナカノコール」に込められてた気がします。