JリーグPRESSBACK NUMBER
「東北にJリーグを」から20余年……。
仙台で考えるプロ球団とホームタウン。
text by
川端康生Yasuo Kawabata
photograph byYasuo Kawabata
posted2018/04/14 11:00
Jリーグが先行した地元密着戦略は、プロ野球でも普及しつつある。しかしそれでも、一蓮托生の度合いには大きな違いがあるのだ。
浦和レッズが関西に誕生していた可能性も。
彼らだけではない。あの頃は多くのクラブが「ホームタウン探し」に奔走していたのだ。
いまやJリーグ最大クラブにして最多サポーターを誇るチームだってそうだった。アマチュア時代は東京のチームで、しかし東京にはJリーグ基準を満たすスタジアムがなく、リストアップした候補地には関西も含まれていたと聞いたことがある。
浦和をホームタウンにすることができたのは、予定していたチームがプロリーグ参入をやめたからだ。もしかしたら“真っ赤なゴール裏”は別の町に出現したかもしれない。いや、その場合はいまのようにはならなかったのかも。
とにかく、あの慌ただしさの中で、ほんのちょっとしたタイミングと巡り合い(それを運命というのだろうが)から現在のJクラブとホームタウンはスタートしているケースが珍しくないのだ。
ホームタウンというと「故郷」を連想するが、現実にはあの時期、必要に迫られて(新しく創設されるプロサッカーリーグに加盟するために)それぞれのチームが選んだ場所。それがJリーグのホームタウンなのである。
かつてプロスポーツ不毛の地と呼ばれて。
それでも、そんなふうに選んで決めたホームタウンのはずなのに、いまではまるで本当の故郷のようになっているのは、年月を重ねたからなのだろう――なんてことを考えたのは仙台にいるからだ。
ベガルタがあってゴールデンイーグルスがあって、仙台スタジアムも宮城球場も盛り上がっている現在では考えられないことだが、仙台はかつて「プロスポーツ不毛の地」と言われていた。
「プロスポーツ」といっても事実上プロ野球のことを指していて、川崎も同じように呼ばれていたことからも、要は「ロッテ球団が本拠地を置いたが短期間で移転してしまった」ことからつけられた呼称なのだと思う。
ちなみにロッテが仙台を本拠にしていたのは1973年から1977年まで。当初、宮城球場にはかなりの観客が押し寄せたらしいが、徐々に減少。結局、わずか5年で球団は仙台を去ることになる。