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小林快、世界陸上銅と箱根への葛藤。
「競歩転向、100%良かったとは」
posted2018/03/19 07:00
text by
生島淳Jun Ikushima
photograph by
Rei Itaya
世界陸上の銅メダルを手にしたいま、小林はその決断をどう振り返るのか。
Number941号(2017年12月6日発売)の記事から全文転載します!
2013年9月7日。アルゼンチン・ブエノスアイレスで開かれたIOC総会で、2020年のオリンピック開催地が東京に決まった。
当時、早稲田大学の3年だった小林快は、その日のうちに秋田にある実家に電話をして両親にこう告げた。
「東京オリンピックが決まったんだ。俺、競歩続けるから」
卒業を翌々年に控え、小林は就職活動の準備も始めていたし、両親も息子は一般企業に就職するものだと思っていた。電話口で「いいけど……」と返すのが精いっぱいの親に、息子はこう言った。
「東京オリンピック、行けると思うから」
爆発するランニング人口に比べ、競歩の人口は少ない。小林が競歩に足を踏み入れるきっかけになったのは、秋田工業高校に入学し、県大会の競歩の出場枠が1つ空いていたからだ。
「W」のユニフォームで箱根を走ろうと。
競歩で守ることはふたつだけだ。
ひとつは、常にどちらかの足が地面に接していることで、これに違反すると「ロス・オブ・コンタクト」の反則となる。もうひとつ、前脚は、接地の瞬間から踵が体の真下にくるまでに、膝をまっすぐ伸ばさなければならない。小林は高校の先輩の歩き方を真似ながら、競歩の世界へと飛び込んでいった。
「最初は難しかったですね。『歩いちゃってるね』と注意されたことがあります。中国語で競歩は『阨走』と書くんですが、感覚的にはこれに近いです。自分では走っているような感覚で、脚を伸ばしていく感じでしょうか」
高校3年の沖縄インターハイでは5000m競歩で2位。しかし、大学で小林は競歩を続けるつもりはなかった。彼がもともと陸上を続けていたのは「箱根駅伝」に強い憧れがあったからで、実際、インターハイが終わってから出場した全国高校駅伝では、秋田工の6区を担当して区間17位の成績を残している。
進学先に早稲田大学を選んだのも「W」のユニフォームを着て、箱根を走る夢を実現させるためだった。