球道雑記BACK NUMBER
ドラフト直前の全治6カ月から2年。
日本ハム2位西村天裕を支えた人の輪。
text by
永田遼太郎Ryotaro Nagata
photograph byRyotaro Nagata
posted2017/11/02 11:45
高校生の清宮や東大の宮台に脚光が当たったドラフト会議。だが、社会人野球界のスター選手である西村は、即戦力として大活躍する可能性が高い。
大学時代のトレーナーも常に西村を見てくれた。
幸い西村の周りには唐澤や飯塚の他にも、力になる大人が複数いた。
そのうちの1人が、西村が帝京大学に在学中、野球部トレーナーを務めていた内田幸一だった。西村にとって、内田は実の父親のように、どんなことでも相談が出来る存在だった。辛いときは傍で寄り添い、嬉しいときは共に喜び、成長のためには鬼にもなってくれる。そんな内田のもとで西村は、フィジカル面でもメンタル面でも、大学時代に大きく成長させてもらったと語る。
「試合で投げたら『良かったよ』と褒めてくれましたし、ダメなときも『ここがダメだったからこうなんだ』と必ず修正ポイントを教えてもらいました。いつもトレーニングに付き合ってくれた思い出ばかりですね」(西村)
手術からNTT東日本に進むまでの約半年間も、西村に付き添い、力になってくれたのが内田だった。
「最後(卒業する際)も『怪我をしてプロで出来なかった悔しさを、社会人に行ってぶつけて来い』と言って送り出してもらいましたし、本当にその言葉が嬉しかった。辛い時期に支えてもらったと思っています」
西村は、しみじみと当時を振り返った。
実戦マウンドに立ったのは翌年8月のことだった。
さらに実の父親からも、こんな言葉をかけられた。
「野球を上の舞台で出来るのは本当に一握りで、限られた人しかいないんだから、出来る喜びを感じて、早く怪我を治しなさい」
大学卒業を機に野球から離れる同級生や、先輩たちの背中を見て、その言葉をより痛感した。同時に、自分のために身を粉にしてくれる周囲の人達の有難みも知った。
だからこそ、辛くて長いリハビリ生活にも耐えようと思った。
怪我をした膝回りをしっかり動かす地味な作業を毎日続け、年が明けた5月になって、ようやく軽いキャッチボールを開始、実戦のマウンドに立ったのは、そこからさらに3カ月後の8月と当初の想定より遅い復帰となったが、その間、体幹トレーニングや体のバランスを整える運動など、コツコツと体力強化に励み、今では怪我をする前よりも心身ともに強くなったと胸を張る。