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幻の最強打線はペタ、カブ、ラミ!?
プロ野球伝説の国際スカウトの秘話。
text by
中溝康隆Yasutaka Nakamizo
photograph byKyodo News
posted2017/10/23 11:00
2001年2月。来日したばかりのヤクルトスワローズの新外国人選手、アレックス・ラミレス選手。
引退後だからこそ語れた、驚くべき秘話の数々!
【『プロ野球 最強の助っ人論』(中島国章著/講談社現代新書/2015年3月19日発行)】
前書から21年後の2015年に発売された一冊だが、中島氏の著書近影が黒髪のオールバックから白髪の初老の男性へと変貌していることからも、時の流れを感じさせる。
こちらで紹介されているのは、現場を離れた今だからこそ言える秘話の数々。
'82年オフにランディ・バースをいつでも獲得できる状況にあったが、当時のヤクルトの一塁には主軸の杉浦享がいたため泣く泣く断念。もしもこの時、ヤクルトがバースを獲得していたら、'85年の阪神日本一も微妙で、その後の球史は大きく変わっていただろう。
最初から“めっちゃいい奴”だったラミレス。
そんな外国人選手を巡る「if もしも」の数々……。
アレックス・ラミレスのケースもそうだった。
ある日、他の選手のスカウティング目的でキャンプ視察に通う中島氏に対して、ラミレスの方から笑顔で声をかけてくる。普通に考えて、何者かも分からない見ず知らずの東洋人に対して声をかけてくる選手はまずいない。後にも先にも、そんな選手はラミレスだけ。
当時のラミちゃんは'98年にインディアンス傘下の3Aバッファロー・バイソンズで打率.299、34本塁打、103打点の成績を残し、9月にはメジャー昇格した23歳の有望若手選手。別に日本球団に自らを売り込む必要なんてどこにもない。つまり、下心はなくとてつもなくフレンドリーな性格だっただけだ。
めっちゃいい奴。
その好印象が数年後の獲得に繋がることになる。