“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
齋藤学のマリノス愛を見た9年前。
ロシアW杯、海外移籍は諦めない。
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakahito Ando
posted2017/09/27 16:30
2008年の齋藤学の「あの姿」。9年前のこの時から、齋藤はずっと己の道を信じて走り続けてきた。
「残りの試合マリノスへこれまで以上の声援を」
J1第26節の柏レイソル戦で今季初ゴールを決め、さあこれから波に乗って……と思ったところでの大怪我。一番悔しいのは本人であることは間違いない。
想像を絶するような絶望感の中でも、齋藤自身はTwitterを更新し、ファンや仲間に自らこうメッセージを送っていた。
「怪我しました。
多くの人の期待を裏切る事と共に、自分自身の目標だったことが
遠のいていく辛さ。
でも、ロシアのW杯も
マリノスの優勝も、
海外でのプレーも諦めずに追いたいと思います。
俺は元気に前をみて進んでます
なので、残りの試合マリノスへこれまで以上の声援をお願いします。」
筆者はこのツイートを読んで、胸が締め付けられる想いだった。
ここまで信念を持って厳しい戦いを続けてきた男に、さらに試練を与えるのか!
そんな思いと同時に、齋藤学の「あの姿」が脳裏に浮かび、すぐに自分のパソコンを開いて当時の取材データを探してみた。
ユースチームの10番を背負って、戦っていた18歳。
筆者の中では昔からずっと変わらず「齋藤学=あの姿」と言えるほど、記憶の中に鮮明に焼き付いているある光景。
2008年9月21日、ひたちなか市総合運動公園陸上競技場。
高円宮杯全日本ユース選手権ラウンド16の横浜F・マリノスユースvs.アルビレックス新潟ユースの一戦。
当時、マリノスユースの10番を背負っていた齋藤学は、すでにトップチームでも2種登録され、この試合の約1カ月前にJ1デビューを果たすなど、高3ながらほぼトップ帯同ともいえる最高の扱いとなっており、ユースの試合にはほとんど出られない状態が続いていた。筆者も当然、ひたちなか陸上競技場に彼は来ないものだと思っていた。しかし、第1試合のガンバ大阪ユースvs.鹿児島城西の取材をしていると、スタジアムのロッカールームに到着したマリノスユースのメンバーの中に齋藤学の姿があったのである。
「あれっ……出るのか?」
そう思い、カメラを撮る所定の場所に移動しつつ、メインスタンドの下にいた彼と少し言葉を交わした。
「今日、試合出るの?」
「いいえ、出ません。でも、どうしてもみんなの試合に来たくて……」