“ユース教授”のサッカージャーナルBACK NUMBER
Jクラブはこの男を見逃してないか?
ゴリゴリのFW、山梨学院・加藤拓己。
text by
安藤隆人Takahito Ando
photograph byTakahito Ando
posted2017/08/24 08:00
同世代のチェコ代表選手を弾き飛ばしていた加藤。高校選手権の予選が始まるまでがプロ入りするか否かの勝負の期間となる。
最初の練習だった「ダイビングヘッド」に心踊った。
小学校時代、鹿島アントラーズつくばジュニアに在籍していた彼は、6年生のときに2人の指導者からさらなる刺激を受け、自らのスタイルを確立していった。
「小6のときの監督が釜本邦茂さんの甥っ子に当たる方(木村匡志監督)で、FW出身というのもあって、ヘッドやシュートの打ち方、その前の動き方を教えてもらったんです。その時に3つある鹿島のジュニアアカデミー選抜に入って、その選抜チームのチーフを長谷川祥之さん(※鹿島の黄金期を支えたストライカー)がやっていて……そこで一番最初にやった練習がダイビングヘッドだったんですよ。そこにまず心が躍って(笑)。
その後、1対1やシュート練習もやったんですが、『ループシュートなんかやるな!』と振り抜く意識を徹底的に教えてもらった。
僕がジュニアユース(アントラーズつくばジュニアユース)に進んでからも、強化部に入った長谷川さんが何回か練習に来てくれたんです。その際、ヘッドやシュートの重要性を教えるときに僕を『お手本役』にしてくれた。それが嬉しかったですね」
ユースには昇格できずも、高校で一気に花開いた才能。
ゴリゴリのストライカーはチョン・テセに憧れ続けながら、着実に成長を遂げていく。
中学3年生の時、結局ユースには昇格できなかったのだが、数ある名門校から声が掛かる中で、最終的に山梨学院高校への進学に決まった。
「本家(鹿島ジュニアユース)が優勝したので、そっちからユースに選手を沢山上げる方針となった。それまで、オファーがあった高校もすべて断っていたんですが、結局ユースへの昇格がダメで……そんな僕を拾ってくれたのが山梨学院。当時監督だった吉永一明(現・アルビレックス新潟シンガポール監督)さんが『お前ならここで成長できる』と誘ってくれて。吉永さんは高校の1年間のみだったけど、1年時から試合に使ってくれて、年代別代表にも選ばれるようになった。それにその時にコンビを組んでいた前田大然先輩が水戸に進んで、さらに成長をしている姿を見て、負けたくないと思ったし、プロに行きたいという想いがさらに強くなったんです」
しかし2年生の秋、大きな落とし穴が待っていた。