箱根駅伝PRESSBACK NUMBER
慶應の箱根駅伝プロジェクト始動!
中心人物に聞く、独自の10年計画。
text by
神津伸子Nobuko Kozu
photograph byShigeki Yamamoto
posted2017/04/18 08:00
長距離専任コーチとして招聘された保科光作が強化の中心となる。箱根駅伝に慶應のエンブレムが帰って来るのはいつになるだろうか。
今も忘れられない、30年前の箱根の記憶。
実は、蟹江は箱根駅伝を体験した数少ない競走部OBの1人だ。
同校が最後に箱根駅伝に出場した'94年の70回記念大会。当時蟹江は4年生で、選手として箱根路を目指していたが叶わず、4、8区のサポートに回った。
「自分で走れない悔しさと、チームで出場する喜びや一体感を、両方同時に味わいました。あの箱根は、自分の人生の宝。そして、ひょっとしたらその貴重な体験が、今回のプロジェクトの芽にもなったのかもしれない」
今回のプロジェクトでも、その実体験が生かされていく。
「今まで、選手個人に焦点を当てた研究はあったが、チームに焦点を当てたものはない。個々の技術力だけでなく、チームワークとの連動で効果的なコーチング、チームビルディングを研究していきたい」
現役の長距離ブロック長、下川唯布輝はまずは、具体的な眼前の目標として、来年の正月に走る関東連合に選手を送り出す事を挙げた。
「箱根駅伝プロジェクトの未来に繋げていきたい。10月の予選会ではチームのメンバー全員が同じ方向を向いていられるように、自分が監督やコーチと選手たちのパイプ役となって、しっかりとチーム作りをします」と。
壮大なスローガンが、実現に向けて動き出す。
保科にも、忘れられない箱根駅伝がある。
日体大学2年生の冬の事だ。
調整ミスから左膝を痛めてしまい、12月には3回しかグラウンドで走る事が出来なかった。しかし駅伝の前日、最後の練習の後、主将と共に監督に呼ばれた。主将は過去3年間、同校の3区を任され、最後の年もエントリーされていた。しかしその場で、保科は監督から「3区を走るのは、お前だ」と告げられた。その時の主将の顔は、覚えていない。いや、直視できなかったと言う方が、適切な表現だろう。
怪我をおして走り抜いた保科は、チームの準優勝に貢献した。主将とも、喜びを分かち合った。
その時の主将の気持ちを、今も思う。保科は全てを受け入れて、こう言う。
「僕を育ててくれたのは、箱根」
10人が走れば、10人にドラマがある。だから、日本人は駅伝に惹かれるのだろう。
母校がそこにいない寂しさも、またある。
慶應義塾は、今年、体育会創立125周年も迎える。スローガンは「学生スポーツの未来を担う」。
学生スポーツを愛する多くの人間が、伝統校の復活へたすきが繋がれていく事を、見守っている。