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山岸範宏、初の「アウェーの埼スタ」。
劇的ヘッド以上の“最高”を求めて。 

text by

轡田哲朗

轡田哲朗Tetsuro Kutsuwada

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photograph byJ.LEAGUE PHOTOS

posted2015/03/13 10:30

山岸範宏、初の「アウェーの埼スタ」。劇的ヘッド以上の“最高”を求めて。<Number Web> photograph by J.LEAGUE PHOTOS

山形の守護神としての姿がすっかり板についた山岸範宏。埼玉スタジアムのサポーターは、13年以上ともに戦った男の凱旋を、どんな歓声で迎えるのだろう。

西部、都築、加藤……常に競争だった浦和時代。

 埼玉県出身の山岸は、県内でも有数の進学校である熊谷高校を卒業すると、中京大学へ進学。在学中には1999年のユニバーシアード・スペイン大会で日本代表にも選出されるまでに実力を伸ばした。山形で共にプレーする石川竜也とは、このときのチームメートである。

 卒業後は地元・埼玉に戻り2001年に浦和レッズへ入団してプロのキャリアをスタートさせた。2年目にレギュラーをつかむと、3年目からは守護神の象徴である背番号1を背負った。

 浦和でのキャリアは、ポジション争いの歴史でもある。西部洋平(現・川崎)に始まり、シドニー五輪やA代表でも活躍した都築龍太、加藤順大(現・大宮)と、錚々たる実力者たちと1つしかない席を争い、しのぎを削り、クラブの躍進を支えてきた。

 例えば、2006年のリーグ優勝のピッチに立っていたのは華々しい瞬間の一つだ。その一方で、2007年のアジア・チャンピオンズリーグ制覇の瞬間はベンチから見守った。それほど、競争は激しかった。

 近年は、2010年にリーグ戦フル出場を果たしたのを最後に出場機会は減っていた。そんな時期にも、折れることなく、不満を露わにするようなこともなく、全力を尽くしてトレーニングに打ち込んでいた。全体練習が終わった誰もいないピッチで、一人黙々と汗を流しながらランニングをする姿を目にしたことも少なくない。だからこそ、年下のチームメートたちからも一目置かれ、慕われる存在だった。

「サッカーに100点はないんですよ。それでも……」

 2013年後半はレギュラーを奪還し、優勝争いの中にあるチームでピッチに立った。そのころ、前置きとして口癖のように言っていた言葉がある。それは、「試合に出られなかった時期もやってきたことではあるんですが」というもの。そこに、山岸のサッカー選手としての原点を感じるのだ。

「とにかく、良い準備をすること。その準備という言葉には長期的なものから、あるプレーに対する瞬間のものまで幅広い意味があるんですけど、どんな時でもその準備をしていなくちゃいけない。サッカーに100点はないんですよ。それでも、矛盾した言い方になるんだけど、目指すところはそこなんです」

【次ページ】 劇的な昇格と天皇杯準優勝を経て、J1残留に挑む。

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