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僕らがF1でホンダを応援するワケ。
もう一度見たい、本物の“反逆精神”。
posted2015/02/20 10:45
text by
尾張正博Masahiro Owari
photograph by
Getty Images
2015年のF1世界選手権開幕まで、1カ月を切った。
今年の開幕を日本のF1ファンは、例年以上に熱い気持ちで待っている。それは、ホンダが7年ぶりにF1に復帰するからだ。
日本からF1に参戦した企業は、ホンダだけではない。ホンダ以外にも多くの自動車メーカーや自動車関連メーカー、あるいはレースに関わる企業が世界最高峰の舞台でしのぎを削ってきた。にもかかわらず、ホンダのF1参戦に日本人は特別な思いを抱く。
それは、ホンダのF1参戦は、単なる競争として参加してきたのではなく、そこに壮大な挑戦が秘められていたからではないだろうか。
「全世界の自動車競争の覇者となること」
ホンダが初めてF1に参戦したのは、1964年。その10年前の1954年に出されたのが、イギリス・マン島で行われていたオートバイのTTレース出場宣言である。そのとき謳われた本田宗一郎の志は、いまや伝説になっている。
“私の幼き頃よりの夢は、自分で製作した自動車で全世界の自動車競争の覇者となることであった”
当時、ホンダはオートバイこそ作ってはいたものの、4輪はまだ製造もしていなかった。すでに4輪を製造している国内のどのメーカーもしていなかったF1への参戦は、ホンダにとってはケタ違いに大きなチャレンジだったに違いない。だが、このチャレンジ精神こそ、国内で最後発の自動車メーカーだったにもかかわらず、その後、ホンダが日本を代表する自動車メーカーにまで成長する原動力となったのではないだろうか。
ホンダがF1参戦の第二期に何度もチャンピオンを獲得することができた理由にも、このチャレンジ精神があった。
上司に秘密でまったく新しいエンジンを作る部下。
'80年代にホンダが黄金時代を築いたエンジンは、もともとF1復帰時に開発されていたエンジンではなく、社内で上司に逆らった部下によって秘密裏に作られた、まったく新しい発想で作られたエンジンだったのだ。
その上司とは第二期F1活動のリーダーで、のちにホンダの第4代社長となる川本信彦。
部下とは川本の下でレーシングエンジンの開発を行なっていた市田勝巳だった。