格闘技PRESSBACK NUMBER
映画『プロレスキャノンボール』で、
レスラーたちが実現した奇跡とは?
text by
橋本宗洋Norihiro Hashimoto
photograph byNorihiro Hashimoto
posted2015/02/08 10:40
試写会後、DDT高木三四郎社長と会見に臨んだマッスル坂井監督(右)。カンパニー松尾監督の『劇場版テレクラキャノンボール』に感銘を受け、そのオマージュとしてこの作品を作り上げたという。
レースの展開を、ファンたちはリアルタイムで追う。
試合のブッキングも実際に選手たちが行なう。一流選手との対戦を狙って新日本プロレスの道場に入り込もうとするチームがあり、選手の自宅で試合を始めてプロテインの粉をぶちまける者がいる。神社で闘い、公園で闘い、公園の遊具は凶器になる。旅の途中で急きょ大会を開くことになり、告知した数時間後にはファンが集まっていたりもする。
こうしたレースの展開を、プロレスファンはリアルタイムで追っていた。選手やスタッフがツイッターのハッシュタグ〈#pwcb2014〉を通して旅の様子をレポートしていたのだ。「道のりからしてこのあたりの大会に飛び入りするんじゃないか」と先回りしようとするファン、選手に情報提供するファンも。プロレスキャノンボールは映画の撮影企画であると同時に、ファン参加型の祭りでもあった。旅の映画=ロードムービーにもかかわらず風景描写がほとんどないのは、詩情や感傷が祭りの狂騒を邪魔するからかもしれない。
旅の途中で生まれる、もう一つのゴール。
とはいえ、『プロレスキャノンボール』はただ笑って終わりの映画ではない。大家健と今成の「ガンバレ☆プロレスチーム」は厳しい現実を突きつけられる。ガンバレ☆プロレスはDDT系列の極少&弱小団体。このレースも自費参加だ。初日は順調にポイントを重ねていった二人だが、レースを競う“天才”や“手練れ”たちとの差、自分たちが持つコンプレックスに直面せざるをえなくなってしまう。
第一目的地の福島を通過し、最終目的地の岩手を目指すうちに、トップ選手たちの心にも変化が訪れる。プロレスラーは、平凡な暮らしの中に闘いという非日常、つまり祭りをもたらす存在だ。プロレスラーが闘って、そこに観客がいれば、どんな場所でも祭りができる。東京ドームでも、路上でも、被災地の小さな体育館でもだ。ならば、プロレスラーである自分たちが今、できることは何か。映画の撮影という“企画”だったはずのレースには、現実とリンクした別の意味、別のゴールが生まれることになる。
終盤、選手たちが“別のゴール”にたどり着いた頃には、映画の前半で多用されたナレーションやテロップはすっかりなくなっている。レスラーの動き、それを見つめる人々の表情がすべてを物語っているからだ。そこでは、作品のエモーションとプロレスというジャンルが持つ最良のエモーションが完全に同化している。