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J1通算300出場のFC東京・羽生直剛。
全ての監督が愛した“目立たなさ”。 

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飯尾篤史

飯尾篤史Atsushi Iio

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photograph byJ.LEAGUE.PHOTOS

posted2014/10/10 10:50

J1通算300出場のFC東京・羽生直剛。全ての監督が愛した“目立たなさ”。<Number Web> photograph by J.LEAGUE.PHOTOS

FC東京での今季初先発は第17節だったが、その後は完全にスタメンに定着した羽生直剛。代表に4人を送り込むFC東京でも、攻守にチームの中心的な役割を担っている。

オシムと出会い、羽生のサッカー人生が動き出す。

 サッカー人生が大きく動き出すのは翌'03年、オシムと出会ってからだ。運動量が豊富で、ゴール前に何度も飛び出していく羽生は、“オシムサッカーの申し子”と呼ばれ、市原躍進の立役者のひとりになった。

 '06年にオシムが日本代表監督に就任すると、代表にも選出されるようになる。代表での羽生といえば忘れられないのは、'07年6月のコロンビア戦。前半は相手の激しいプレスの前に攻撃陣が沈黙。だが、後半開始から羽生が投入されると、日本の攻撃ががぜん勢いづく。

 このとき羽生がしてみせたのは、オフ・ザ・ボールでの積極的かつ効果的なランニング。味方がパス交換している間に前線に飛び出し、敵と対峙している味方のそばを走り抜けることでマークを引き剥がす――オシムの言う「考えて走る」ことだった。

 前半のピッチには、'99年のワールドユースで準優勝した遠藤保仁、稲本潤一、中田浩二、高原直泰ら'79年生まれの「黄金世代」がいた。羽生も'79年生まれだが、大学を経由してプロになった「“裏”黄金世代」。

 その彼が「別世界の人たちだと思っていた」という同級生にオシム流をレクチャーするという痛快さ。チームの潤滑油としての彼の存在価値が、国際Aマッチでも証明された夜だった。

城福浩がもたらしたプレーの成熟。

 もっとも、羽生が本当の意味で考えてサッカーをするようになったのは、FC東京に移籍してからだという。

「それまでは、オシムさんに認められたいという一心で、ガムシャラにやっていただけ。自分の周り2、3人のことは見えても、チーム全体がどう機能しているのか、分かっていなかった。(当時FC東京を率いていた)城福(浩)さんにサッカーはどうやって成り立っているのかを教わった」

 どのタイミングで、どの角度でサポートすれば最も効果的か、どのようにペース配分すれば自分の力を最大限に発揮できるか……。ひとつひとつのプレーが緻密になり、動きも計算尽くされ、成熟したプロフットボールプレーヤーに変貌していった。

【次ページ】 羽生「何人も抜く選手だけで勝てるわけではない」

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