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<ソチ五輪で初代王者へ> 高梨沙羅 「女子ジャンプの歴史を背負って」
text by
松原孝臣Takaomi Matsubara
photograph byShino Seki
posted2014/01/24 06:15
「子どもができなくなる」と言われた偏見を乗り越えて。
その中で、一人の中学生が、伝統ある大会のひとつから許可を得て、出場を果たした。山田いずみという。女性ジャンパーの第1号が誕生したのである。
しかし山田は、多くの困難を味わうことになる。今日からすれば考えにくいが、女性が飛ぶことなど思いもよらない時代だったからだ。当時の目線は、山田の次の言葉が象徴している。
「『女の子がジャンプなんかしていたら、将来、子どもができなくなる』とか平気で言っているような時代でしたから」
山田に続くように、少しずつ女子選手が現れ始めた。しかし彼女たちは苦しみ続けた。容易に消えない偏見、その結果、出場を許される大会は少なく、競技を続けることへの理解もなければ環境もみつからない……。その中にあって、山田を筆頭に“フライングガールズ”は競技を続けてきた。
中には首を骨折しながら復帰した選手がいれば、居酒屋でアルバイトしながらほぼ徹夜で国際大会に臨まなければいけない選手もいた。そんな頑張りが、少しずつ支援を増やしてきた。彼女たちが望んでいたのは、五輪種目への採用であった。大きな目標ができる意味はむろん、注目を集めることは競技の地位を引き上げる機会にもなる。
第一人者の山田いずみは挫折を糧に指導者の道へ。
だからこそ、ソチ五輪は、女子ジャンプに携わるすべての人々にとって、待ち続けていた日でもある。
高梨が、これまでに何度も口にしてきた言葉がある。
「先輩の方々のおかげで」
年長の選手たちがどのように競技の基盤を築いていったかを知るからこそだった。
2009年に引退した山田いずみは、今シーズン、コーチとしてナショナルチームに戻ってきた。また、高梨のプライベートコーチにも就任した。山田は、メダルを期待された'09年の世界選手権で不振に終わったことに触れつつ、こう語る。
「今はあそこで失敗してよかったなと。いろいろな挫折はありましたけれど、要所要所でいい成績を残し続けてきたので、最後もかっこよく終わっていたら、こうして指導者になったとき、うまく教えられなかったんじゃないかなと。大きく考えると、あのときの失敗は必要だったんじゃないかと思います」