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<狂気の左サイドバックが語る代表の20年> 都並敏史 「僕を一回り超える世界基準の男が現れた」 

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一志治夫

一志治夫Haruo Isshi

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photograph byTadashi Shirasawa

posted2013/11/15 06:01

<狂気の左サイドバックが語る代表の20年> 都並敏史 「僕を一回り超える世界基準の男が現れた」<Number Web> photograph by Tadashi Shirasawa

勝矢、江尻、三浦泰……代役に足りなかったもの。

 ドーハ敗退の一因には左サイドバックの不在があったことはコーチ陣も認めている。オフトと清雲栄純は、'93年の夏までに70もの試合を見てスカウティングを重ねたが、都並をバックアップできるようなプレーヤーを見出すことはできなかったのだ。江尻篤彦、三浦泰年、勝矢寿延らを起用しても、攻撃と守備のバランスの問題が必ず出た。望むような左サイドバックは最後まで得られなかった。

 あの時代の勝矢は、心は最高、体も最高、でも、左サイドバックとしては、技がない。ストッパーとしてはすごくいいですよ。でも、左サイドバックとしての心技体はそろっていなかった。

 オーバーラップができます、でも守備は弱いです。つなぎは上手いです、でも守備は弱いです。サイドバックはこれでは困るわけです。攻撃の仕掛け、中盤のつなぎ、そしてディフェンスの安定。この3つがそろっていないとサイドバックはできない。

 いまでは、バランスがいいのは当たり前で、さらに細部のところをどう詰めるか、という領域に入っていて、明らかに進化しているわけです。つまり、オシム的な走力だとか、つなぎの繊細さだとか、ディフェンスの強い当たりとか、粘り強さとか、そういう個性が加わっている。それがいまのサイドバックです。

運は、努力する中で変わってくるものだと思う。

 でも、僕はあの時代においては、そのバランスがいいたったひとりの選手でもあったんです。もちろん、あのとき、ケガをしないで、素晴らしいプレーをしていれば、世界へ出て行ける可能性もあったと思うこともあります。でも、それは、人間の運なんです。そして、運は、努力していく中で変わってくるものだと思う。そんなことをドーハからの20年で実感し、学んだんでしょうね。

 結局、都並が試合に戻ってくるには、実に丸1年と2日の歳月が必要だった。そして、不動の左サイドバックは、'95年2月の韓国戦を最後に日本代表を退き、'98年のシーズンを最後に現役を引退した。

 引き継いだのは、鹿島アントラーズの相馬直樹だった。'95年の代表デビューから'99年まで日の丸をつけ、左サイドバックの役割を十全に果たした。

【次ページ】 11対11を“11対12”にできる長友佑都の総合力。

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