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<気鋭の社会学者の現代ニッポン論> 開沼博 「皇居ランナーはなぜ生まれたのか」
text by
開沼博Hiroshi Kainuma
photograph byTamon Matsuzono
posted2012/12/06 06:00
時間と場所を共有する人々がいることで「居場所」に。
アンケートによれば多くの人が「仲間の存在」があるから走ると答えている。「仲間」とは、直接的には「一緒に走ろう」と約束をしたり、「今日は○○分だった」と記録を教え合ったりしている人のことを指すのだろう。
ただ、少し考えてみると、ここで言う「仲間」というのは、そんな「直接的な仲間」だけではないようにも思えてくる。そこに行きさえすれば誰かが必ず走っている。名前も職業も知らないが、同じ時間・場所を共有している「他にも走っている無数の人々」がいることで、そこが一つの「居場所」となり「生きがい」となり、走り続けやすくなっているのではないか。
「個人化」した人々が「生きがい」を求めた先が、皇居だった。
社会学で「個人化」という言葉がある。かつては家族や会社、地域コミュニティなどの「個人と社会をつなぐ共同体」(これを「中間集団」という)がそれぞれの人に「居場所」や「生きがい」を与えていた。しかし、「中間集団」がバラバラになっていく中で、個人はそこに「居場所」や「生きがい」を求められなくなっていく。これが「個人化」だ。
「個人化」は一方では人を自由にするが、他方では孤独にもする。ゴルフや麻雀に誘ってくる「ウザい上司」は減り、「ほどよく客を接待しなければ」と腕を磨く必要もなくなった。ただ、じゃあ、どこにいけば「居場所」や「生きがい」があるのか。それを求めた先に「皇居」という、美しい景観と、自然発生的な「共同性」が併存している場があるのではないか。
男性ほど多くはないとしても、そこに就業後の時間を有効活用しようと多くの女性が走っていること、そして、30代~50代で7割を超えている割に、全体の独身率が63%という数字は、まさに東京都心の就業者の人口構成や家族形成の状況を映しているようにも見える。皇居ランニングブームは現代社会を映す鏡だ。ブームの行方が興味深い。