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<気鋭の社会学者の現代ニッポン論> 開沼博 「皇居ランナーはなぜ生まれたのか」
text by
開沼博Hiroshi Kainuma
photograph byTamon Matsuzono
posted2012/12/06 06:00
なぜゴルフや麻雀ではなくランニングなのか。
ランニングが人にもたらす「目的性」も大きいのだろう。「東京マラソン」はじめ、今では様々な市民ランナーの参加が可能な大会が各地で開かれるようになった。「フルマラソン経験がある」と答えた人が42%というのは結構驚いたが、それだけ「本格的なマラソン」への心理的ハードルが下がり、多くの人に浸透しているということだろう。また、そんな大きなことばかりではなく、ランニングをする中でタイムを更新したり体重を減らしたり、自分自身との闘いに打ち勝つという「目的性」をもった経験もできる。
ただ、それだけなら「ゴルフでシングルになるとか、麻雀でもこの前負けた分は勝ちたいとか、色々あるじゃないか」という話も出てくるだろう。なぜゴルフや麻雀ではなくランニングなのか。
一つは、ゴルフや麻雀(あるいは、車や釣りでもなんでもいいのだが……)に比べれば、ランニングに必要なカネ・モノ・時間が、コンパクトだという点は大きい。時間別の数の推移を見れば、就業後の数時間をランニングに当てる人が最も多く、また7割方の人が走るのを週1~3回程度にしている。道具も最低限ですみ、走ること自体に費用がかかることもない。「不景気・デフレ、でも時間の余裕はない時代」に適した趣味だと言える。かつてから「ランニングが趣味」という人(私の勝手な印象だが、健康マニアなおじさんか小中学生を中心にして)はいたが、先述したような「おしゃれなランニングウェア」や「ランナー向け施設」の登場がより多くの人を巻き込んでいっているのは間違いない。
人をかき分ける形で走ろうとするのは、「共同性」への志向だ。
ただ、「皇居」を聖地として集う市民ランナーたちの特異性に注目した時に、そこにはより重要な意味が見いだせる。それは「共同性」への志向だ。
本来、走ることなんてどこでもできるし、誰もいないところで、家の周りで一人で勝手にやればいいことでもある。それを、わざわざ、その場所が便利な人ばかりでもないであろう「皇居」周辺に集まって、ともすれば人をかき分ける形で走ろうとするのはなぜか。