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<日本一のアルパインクライマーが語る(1)> 山野井泰史 「山との出会い、少年時代の記憶」
text by
柳橋閑Kan Yanagibashi
photograph byMiki Fukano
posted2012/08/02 06:00
「上手くなりたい」よりも「あそこに登りたい」。
――その頃のモチベーションは、この壁を攻略したいとか、レベルアップしたい、スキルを上げたいということだったんでしょうか。
上手くなりたいとは思っていたけれども、それよりも「あそこに登りたい」という思いがあって、その場所が徐々にレベルアップしていった感じですかね。今度はあの岩壁が目標、次はあのルート、というふうに次々イメージが湧いて、テクニックや体力は後からついてきた。
当時はよく友達とも登っていたけど、やっぱり何をやっても、僕のほうがすぐ上手くなりましたね。自分から誘うぐらいだから、やる気もあったんでしょうけど、登っていると「自分はクライミングというものにフィットしてるな」という感覚はありました。
10代後半の頃かなあ。クライミング界で有名になりたいなという気持ちが自分の中にちょっと出てきたのは覚えています。
当時、『岩と雪』という雑誌があって、いい登攀については、1行ぐらい記録が載ったりしたんですよ。そこに名前を載せたいなと思ったんです。そこに載ることで、「俺はクライミング界で生きてるんだ」という証が立てられる気がしたんですね。実際、高校3年生ぐらいで載ったときはうれしかったですね。でも、「あそこに載るために、このグレードを登ってやろう」と考えたことはないです。それに、20代になると、そういう欲望みたいなものはそもそもなくなっちゃいました。
ヨセミテへ――ビッグウォールと恐怖の克服。
――高校を卒業した後、ヨセミテのビッグウォールへ旅立つことになるわけですが、このときはどんなことを考えていたんですか。
ヨセミテは日本人に限らず、世界のクライマーにとって聖地みたいな場所。みんながめざしていたし、僕も高校を卒業したらヨセミテに行くんだなと、当たり前のように思ってました。
いまでこそクライミングにはプロフェッショナルっぽい人がいますけど、その頃はもっとアウトローの集団みたいなところがあって、クライミングバムと呼ばれる連中が大勢いたんです。自由な雰囲気で、みんな夜な夜な歌って踊って酒を飲んで、朝になれば登る。仕事もせずに一年中クライミングしていて、「いいなあ、俺もこういう生活を一生続けたいなあ」と思いましたね。
日本人も数人いましたよ。僕は高校を出てすぐ行ったから、その中でもいちばん若かったけど、いちばん上手かったですね。自分で言うのもなんですけど(笑)。