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「ボスは誰だ?」藤原喜明の問いに、船木誠勝が沈黙した会議…藤原組“わずか2年の解散”全真相と、パンクラスを生んだ高橋義生との一戦

posted2025/05/15 17:01

 
「ボスは誰だ?」藤原喜明の問いに、船木誠勝が沈黙した会議…藤原組“わずか2年の解散”全真相と、パンクラスを生んだ高橋義生との一戦<Number Web> photograph by AFLO

船木誠勝が明かす、プロフェッショナルレスリング藤原組での2年間

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堀江ガンツ

堀江ガンツGantz Horie

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 今年、格闘生活40周年を迎えたことを記念して『船木誠勝が語るプロレス・格闘技の強者たち』(竹書房)を出版した船木誠勝。インタビュー後編では、UWF解散後に所属したプロフェッショナルレスリング藤原組でどんなことがあり、1993年に“完全実力主義団体”パンクラスを旗揚げし、リアルファイトの扉を開いたのかを語ってもらった。《全2回のインタビュー後編/初回から続く》

◆◆◆

 80年代末に「社会現象」と呼ばれるほどのブームを巻き起こしながら1990年に内部崩壊を起こした第二次UWF。その解散前後、さまざまなゴタゴタの裏で展開されていたのは、船木誠勝の争奪戦だった。

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 神新二社長らUWF経営陣と前田日明をはじめとする選手が運営方針や金銭問題で対立し、選手間もトップ3である“前髙山”(前田日明、髙田延彦、山崎一夫)と若手の間に壁ができていたあの時期。神社長は、もともと船木をエースとすることで“前田抜き”の体制を模索していた。しかし90年12月の松本大会のリング上で、前田を含めた選手全員が“バンザイ”によって一致団結を表明したことでそれが頓挫し、神社長が全選手を解雇することでUWFは解散。

 選手たちは新会社を設立して再出発を目指したが、91年1月に前田宅で行われた選手会議が紛糾し、前田が「解散」を宣言。再び選手がバラバラになりかけたとき、宮戸優光が中心となって若手だけでUWFを続けていくことを画策。その時にエースとして考えていたのも船木だった。また、藤原喜明は個人としてSWSへの移籍を考えていたが、オーナーのメガネスーパー田中八郎社長(当時)から「新団体を作るから船木と鈴木みのるを引っ張りなさい」と条件を出されていた。そして前田も、船木に「もう一度、話し合いのチャンスをください」という手紙を送るなど、関係修復することでUWFを続けていこうとしていた。

 実力とスター性を兼ね備え、将来性抜群だった船木は、神社長、宮戸、前田、それぞれが新たなUWFを始めるときに、どうしてもほしいタマだったのだ。

船木はなぜプロフェッショナルレスリング藤原組を選んだか

 しかし船木はそのどれにも属さず、新日本プロレス時代から師と慕う藤原喜明の誘いに応じ、プロフェッショナルレスリング藤原組に身を投じた。その理由を船木自身はこう語る。

「当時、自分が団体のエースになるなんて自信がなかったんですよ。UWF最後の松本大会では、自分と(ケン・ウェイン・)シャムロックとの試合がメインでしたけど、先輩相手ではない自分が“主役”のメインは初めてだったので、その時もかなり不安でしたから。

 だからUWFが解散になってしまった後、本当は宮戸さんが中心になって自分をエースにして、前田さん、髙田さん、山崎さん、藤原さんを外した若手だけで新団体をやっていくはずだったんですけど、お金もない中、俺がメインでやっていく自信がなかったから、メガネスーパーがバックについている藤原さんのところの方が安全だなって、安全なほうを選んでしまった。それで宮戸さんたちUインターと、俺ら藤原組にわかれたんです」

 UWF解散の時点で船木はまだ21歳。新日本の前座レスラーだった若手が、わずか1年間の海外修行を経てUWFに移籍してまだ1年半という時期。船木自身の気持ち的には、まだまだ“若手”だった。藤原組への参加は、エースに押し上げようとする周囲と自己評価の溝を埋められなかったための、消極的な選択だったのだ。

【次ページ】 「藤原組の2年間は、ものすごくイライラしていました」

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