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「野球王国」四国の残念な実態。
~四国から消えた「全力疾走」~ 

text by

小関順二

小関順二Junji Koseki

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photograph byAkane Ohara

posted2009/06/06 06:00

「野球王国」四国の残念な実態。~四国から消えた「全力疾走」~<Number Web> photograph by Akane Ohara

四国出身(高知・明徳義塾)の巨漢(171センチ、115キロ)でも全力疾走を貫く亜細亜大主将・中田亮二一塁手。10月29日のドラフト会議では上位指名が予想されている

 佐山和夫著『明治五年のプレーボール』(NHK出版)には明治4年に来日し、現在の東京大学の前身、第一大学区第一番中学で英語と数学を担当したホーレス・ウィルソンが明治5年に学生たちに指導したのが日本野球の始まりだと記されている。この野球伝来から14、5年後、東京から遠く離れた愛媛県松山市では既に野球は定着していた。驚くべき伝播力である。

正岡子規が愛した松山の学生野球。

「松山城の北に練兵場がある。ある夏の夕其処へ行って当時中学生であった余らがバッチングを遣っていると、其処へぞろぞろと東京がえりの四、六人の書生が遣って来た。(中略)/『おいちょっとお借しの。』とそのうちで殊に脹脛の露出したのが我らにバットとボールの借用を申込んだ。我らは本場仕込みのバッチングを拝見することを無上の光栄として早速それを手渡しすると我らからそれを受取ったその脹脛の露出した人は、それを他の一人の人の前に持って行った。(中略)/このバッターが正岡子規その人であった事が後になって判った」(高浜虚子著『回想 子規・漱石』岩波文庫)

 子規の生き生きした姿を高浜虚子が奔放な筆さばきで活写しているので、時間がある人は読んでほしい。

 子規の野球への没入ぶりは司馬遼太郎が『坂の上の雲』で紹介し、拙著『09年版 プロ野球 問題だらけの12球団』(草思社)ではその一節を、中日のWBCに選手を派遣しない理由に対する反証として用いた。時間がある人はそれも読んでほしい。子規の野球に対する愛情の深さが伝わってくると思う。

データが野球王国・四国を立証する。

 愛媛は文人だけでなく数多くの名選手も輩出した。たとえば沢村栄治(球聖と称えられている戦前の名投手・巨人)のライバル・景浦将(松山商→阪神)やライト打ちの名人・千葉茂(松山商→元巨人)で、彼らの活躍は春・夏の甲子園大会の成績にしっかりと反映されている。

 春=60勝49敗 夏=113勝57敗 通算勝率.620

 この成績は「野球王国」と謳われる神奈川.616、大阪.605、愛知.601、広島.598を引き離し、上を行くのはわずかに同じ四国勢の高知.622だけである。四国を「野球王国」と呼ぶのに何の不都合があるだろうか。

【次ページ】 「全力疾走」こそ四国野球の魅力だが……。

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