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たたき上げを愛す。 

text by

阿部珠樹

阿部珠樹Tamaki Abe

PROFILE

posted2004/05/20 00:00

「日本がハイセイコー一色に染まった日を知ってるかい?」
「オグリキャップの激走には涙せずにいられなかったな……」
東京は立会川に店を構え50年、馬券を追い求めたトンカツ屋
親子三代が、「地方vs.中央」に潜む日本競馬の真髄を語る。

 関西で名の知れた岩田は、関東でも声がかかるようになった。

 園田の自宅には早く帰りたかった。月曜日は午前4時から調教に跨って、午後3時には地元競馬の調整ルームに入る忙しさである。平日は兵庫、土日は中央。昨年はJRAで年間25勝を挙げた。全国区で活躍するようになって、休みはほとんどなくなった。「アンカツ、小牧の次は岩田」と、彼をそう位置づけている競馬関係者は多い。

 中学3年の頃、姫路競馬場近くのお好み焼き屋で運命は決まった。130cm、30kgの少年に、見知らぬおっちゃんが「君、ジョッキーになったら儲かるで」と声をかけた。「ジョッキーってなんやねん」と聞き返した岩田だが、母親の薦めもあって地方の競馬学校を受験した。当然、中央は知らなかった。

 「教官に“あと2点足りんかったら落ちてた”と言われた。中央を受けてたらまず滑ってたから、僕はこれでよかったんちゃう」

 デビューした'91年は7勝だった。3年目に104勝を挙げてから飛躍的に勝ち星を伸ばし、6年目は兵庫3冠を制覇した。

 「最初はがむしゃらなだけやった。人より先輩にごっつ怒られて、勉強になった」

 小さな体に坊主頭。“あんちゃん時代”はマルコメの愛称でかわいがられたが、馬に乗れば勝負師に豹変した。狭い進路でもひるむことなく突っ込んでいった。

 時代の流れも、岩田を後押しした。'99年、アラブ競馬のみだった兵庫にサラブレッドが導入されて中央へ行く機会が増えた。

 「初出走の時はレースに参加してないって言われて、ボロボロに自信がくずれた。実績と“乗れる”ことは関係ないって分かった」

 一戦一戦大事に乗ることで展開を掴めるようになり、穴馬で連対する力がついた。

 中央で18勝を挙げた'02年は、ビリーヴでセントウルSを勝ち重賞初制覇。後にを2勝した牝馬の引退式には、主戦の武豊、安藤勝己とともに参加した。

 「なんで僕がおるんやって恥ずかしかったけど、うれしかった。また、ビリーヴみたいな超一流馬に出会いたい、ずっと乗りたい、中央に行ったら乗れるんやろなって……」

 憧れは強くなったが、周りの環境や条件が整わないうちは自然体で構えることができた。「まだ早い」と肝に銘じていたが、無意識の願望は自分の想像を明らかに超えていた。

 昨年度の試験で、園田のトップだった小牧太とリーディング3位の赤木高太郎が合格。岩田も1次から受験したが、不合格だった。

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