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佐藤勇人 一度は捨てたサッカーだけど。
text by
鈴木英寿Hidetoshi Suzuki
posted2006/11/23 22:43
当時、ジュニアユースのコーチを務めていた大木誠(現在はジェフ千葉・業務統括本部業務部部長)は、小6から現在に至るまで勇人を見守り続けてきた恩師である。
「いやあ、とにかく熱意がすごくて(笑)。スタッフの一人がね『大木さん、電話がスゴイから、セレクションやりましょうよ』って」
クラブユース勃興期だからこそ実現した、前代未聞の「セレクション前倒し」。父の粘りが、プロクラブのスケジュールを覆した。
'93年秋、十数人の小学6年生の中で大木の目に留まったのは、弟の寿人だった。小柄ながら、その素早い動きと独特の嗅覚は、大人を唸らせるものがあった。
兄の勇人は注目されなかった。念願叶って実現した早期セレクションだったが、佐藤家の好むと好まざるとにかかわらず、弟には至福の喜びを与え、不幸にも兄には陰鬱な心象風景を残すキッカケとなってしまった。
同じ年の10月28日、日本代表はアメリカW杯予選における「ドーハの悲劇」を経験する。日本代表が痛恨の同点ゴールを被弾し、W杯切符を逃した瞬間、サッカーをこよなく愛する佐藤家の父は、こらえきれない悔し涙をかくそうとはしなかった。三浦知良に憧れていた寿人も目は真っ赤に腫れていた。
勇人は泣かなかった。
試合終了を告げるホイッスルが鳴ると「俺には関係ない」と心の中でつぶやき、父と弟を残し、一人でさっさと眠ってしまった。
年末には再びジェフのセレクションが行なわれたが、勇人はここでも落選してしまう。中学入学の4月、2度の挫折を経験した勇人は、穏やかで柔らかな春風さえも、頬に突き刺さる思いがしたに違いない。
「どうして千葉に行くんだ?」。友人たちの問いには、「サッカーをするから」と答えて、埼玉を離れた。小学校1年生のまだ幼い妹は、自分たち兄弟のせいで、友人との別離に悲しんでいる。確かに弟は順調にジェフのジュニアユースに入団したが、自分は──。
ここで兄を救ったのは、他ならぬ弟だった。寿人は練習前、必ずと言っていいほどコーチたちの前でボールを一人こねくり回し「ねえ、お兄さんも入れてよ」と囁き続けた。