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佐藤勇人 一度は捨てたサッカーだけど。
text by
鈴木英寿Hidetoshi Suzuki
posted2006/11/23 22:43
佐藤勇人は誰よりも勤勉に走る。
所属するジェフユナイテッド市原・千葉では、不動のボランチとして君臨する。守っては獰猛にボール保持者に襲いかかり、攻めては怒涛のフリーランで、敵陣を急襲する。
2006年11月3日。千葉は鹿島との決勝戦で2― 0の勝利を収め、ナビスコカップ連覇を成し遂げた。
勇人は'03年にジェフ千葉の監督に就任したイビチャ・オシムによって真のプロ意識を注入され、Jリーグを代表するボランチへと大飛躍した“オシムチルドレン”の代表格である。今年8月16日のアジアカップ予選・イエメン戦では遂にA代表のピッチへ立った。その日は、双子の弟である寿人ともに、試合に出場し、“日本代表史上初めて双子の兄弟が揃ってプレーした”記念碑ともなった。
ジェフの下部組織が生んだ佐藤勇人はいま、一直線にプロサッカーの世界を疾走しているように見える。だが、これまでの歩みは決して順調ではなかった。とりわけプロ前夜の10代は、自己抑制と自己爆発を繰り返し、余人には真似できない、起伏に満ちた道程を走ってきた。
小学校1年生の時、埼玉県のクラブチームに入団した勇人は、寿人と一緒に日が暮れるまでボールを追いかけていた。そもそも、剣道を始めるつもりだった勇人がサッカーを始めたキッカケも、すでに入団していた寿人の影響だった。
実際にプレーしてみると、瞬く間に、サッカーの虜となった。ポジションはトップ下。チームの王様である。学年が上がるにつれて、上の学年の子に混じってプレーしても遜色ないほどに、技術は向上した。
小学校6年生のとき、両親が埼玉県春日部市で経営するラーメン店をたたみ、千葉県へと越県することを決心したのも、二人の才能を伸ばすにはジェフのクラブユースが一番だと考えたからだ。
勇人は振り返る。
「もし地元の中学校の部活に行っていたら、1年生ではボールに触れなかった。キッチリとした先輩、後輩の上下関係もあります。父がジェフのジュニアユースの試合を見に行ったことがあって、そのときに当時のコーチと話をして、『ここなら成長できる』と確信して、僕たち兄弟に薦めてくれたんです」
父の熱意は強かった。小6の9月頃から「うちの子を見てやってください!」と売り込み電話をジェフの事務所へとかけまくる。セレクションは12月。その3カ月も前から父は電話し続けた。