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『ふたつの東京五輪』 第7回 「日本の威信をかけた戦い(2)」 

text by

松原孝臣

松原孝臣Takaomi Matsubara

PROFILE

photograph byPHOTO KISHIMOTO

posted2009/08/06 11:30

『ふたつの東京五輪』 第7回 「日本の威信をかけた戦い(2)」<Number Web> photograph by PHOTO KISHIMOTO

「東洋の魔女」を率いた、情に厚い「鬼の大松」。

「東洋の魔女」の異名をとったのは、バレーボールの全日本女子チームです。このときは参加6カ国による総当たり戦の結果で順位を決める方式でした。最後の試合はソ連でした。ともに全勝で迎え、決勝といってよい試合。日本は3-0のストレートでソ連を破り金メダルを獲得しました。この試合は、日本中の人が観ていたのではないかというほど関心を集めていました。1日10時間にもおよぶ猛練習を連日行なう模様がテレビでも報じられたこともあって、もともと大きな注目を集めていたのです。

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「鬼の大松」と呼ばれたバレーボール全日本女子の大松博文監督。

 ところで、東洋の魔女というのは、東京オリンピックのときにつけられたものではありません。全日本女子の主体であった日紡貝塚がヨーロッパに遠征し、強豪国を打ち破ったり、1962年の世界選手権で日本が優勝したのですが、そのあまりの強さに、ソ連の新聞が「東洋の魔女」と表現したのがきっかけでした。

 監督もカリスマ性にあふれる人でした。猛練習ぶりから、「鬼の大松」と言われた大松博文監督です。

 たしかに朝から晩までの激しい練習をする監督でしたが、そればかりではありませんでした。工夫に工夫を凝らした人でもあったのです。今日のようなカタカナの名前がついた科学的なトレーニング方法など当時は確立していませんでしたが、独自に追求して、同じような内容の練習メニューにたどりつき、実践したのです。

 また、「回転レシーブ」に代表されるように、オリジナルの技も開発しました。根性主義だけではなく、知性あふれる指導者だったのですね。

選手たちは異口同音に「監督と結婚したかったです」。

 ところで、「鬼の大松」とは別の顔を持っていたことを示す、こんなエピソードがあります。4、5年前のことだったでしょうか、当時の選手たちが集まる機会がありました。その席で、「大松監督が生きていたら?」と、出席していた元NHKアナウンサーの西田善夫さんが選手たちに尋ねました。すると、「結婚したかったです」などと口にしては、みんながみんな泣き始めたのです。「先生はとてもやさしかったから」というのが理由でした。

「鬼」と言われましたが、一方で情にも通じた人でもあり、知性もあり、だからこそチームをまとめきり、優勝に導くことができた。

 やはり名指導者だったのです。

 大松博文監督は東京オリンピックのあと退任しましたが、バレーボール全日本女子は、のちのちまで長く世界の強豪として君臨することになります。

 こうして体操とバレーボール女子を見てきましたが、あらためて思うのは、バレーボールでも触れましたが、体操選手も含めて、みんながみんな、ほんとうによく練習していたということです。今の選手と比べてもそう思います。やらされていた、無理強いされていたわけではありません。やるべきことと自覚し、練習に励んだのです。

 その努力がもたらした成果だったといえるでしょう。

岸本健

岸本 健きしもと けん

1938年北海道生まれ。'57年からカメラマンとしての活動を始める。'65年株式会社フォート・キシモト設立。東京五輪から北京五輪まで全23大会を取材し、世界最大の五輪写真ライブラリを蔵する。サッカーW杯でも'70年メキシコ大会から'06年ドイツ大会まで10大会連続取材。国際オリンピック委員会、日本オリンピック委員会、日本陸上競技連盟、日本水泳連盟などの公式記録写真も担当。
【フォート・キシモト公式サイト】 http://www.kishimoto.com/

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