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<ノルディック複合、復権へ> 小林範仁 「笑顔の新エース」 ~特集:バンクーバーに挑む~
text by
折山淑美Toshimi Oriyama
photograph byKoomi Kim
posted2009/12/12 08:00
ラストの競り合いを勝ったのは運ではなく、実力である。
「ジャンプで逃げきるのではなく、走り重視の新ルールでの勝ちだから意味は大きいですよね。競り合いになると見ているほうも面白いじゃないですか。僕もあのビデオを観るたびにドキドキするんですよ。本当にいい勝ち方をしたと思いますね」
明るい表情で話す小林は、自分の距離での競り勝ちが運が良かっただけだと思ってはいないと胸を張る。走りで世界に通用する手ごたえはあった。これまでのW杯では表彰台こそないが、ラストの競り合いには勝つことが多かったからだ。だからこそ、いろいろな駆け引きをして最後まで脚を残しておく作戦を取ったのだと言う。
荻原健司以降を引っ張った高橋大斗と同じ秋田県阿仁町(現・北秋田市)で生まれた小林は、小さな頃からアルペンスキーやクロスカントリースキーに親しみ、小学6年でジャンプを始めると自然に複合を選んでいた。高校2年の'00年2月にW杯初出場を果たして21位になると、その後は代表チーム入りしてW杯を転戦しながら、'01年世界ジュニア選手権で優勝。それまでの日本選手には稀な“走れる選手”と注目された。その勢いのまま'02年ソルトレーク五輪へ出場しスプリントで17位。ジャンプで勝負する高橋とともに、日本チームの両輪になると期待された。
甘えを克服し、失いかけた笑顔を取り戻すまで。
しかし、そう順調にはいかなかった。日大に進み環境が変わったことで甘えが出てしまったのだ。
「もともと雑だったジャンプがどんどん悪くなっていった。当時は言われたことをやるだけで自分では考えていなかったんですね。いろんな人にアドバイスを受けたけど、そんなので上手くなるわけないじゃないですか。でもその時は『言われたようにやってるのに何で飛べないんだよ』って、逆恨みするような気持ちになっていた。W杯へ行っても30~40番で歯が立たないから、そこでいい成績を出すという目標も持てなかったんです」
たまに出場するW杯では惨敗しても、格下のW杯Bでは、走力はあるためにそれなりの成績を出せる。'03年ユニバーシアードでは、団体を含め3冠も獲得した。大学へ帰ればちやほやされる環境のなかで、「こんなんでいいんだ」という気持ちになってしまっていた。
「結局、甘えていたんですね。とくに大学4年の時はケガも重なって最悪でした。その時は『これでスキーをやらなくていい、大会に出なくてもいい』と思ってほっとしたくらい。ジャンプも全然飛べないのに合宿や試合に出るのはきついですからね。だからもう、卒業したらスキーはやめようと思っていました。世界ジュニアもユニバーシアードも勝ったし、普通に考えたらもういいでしょうって」
高校時代の小林は、たとえジャンプで失敗しても笑顔を絶やすことはなかった。だが、この時代をふり返って見れば、その明るい表情は消えていた。