詳説日本野球研究BACK NUMBER
箕島高校、伝説の激闘譜は永遠に。
名将・尾藤公監督の思い出。
text by
小関順二Junji Koseki
photograph byNIKKAN SPORTS
posted2011/03/10 10:30
1991年の第63回センバツ大会1回戦、箕島対旭川龍谷戦でベンチから指示を出す尾藤監督。この大会が甲子園での最後の指揮となった
選手の自主性を重んじ、とことん信じきる胆力があった。
尾藤さんの監督としての戦績は35勝10敗。勝ち星だけなら阪口慶三・大垣日大高監督と並び史上8位だが、上位10傑の中で勝率.778は中村順司・元PL学園監督の8割5分3厘に次ぐ史上2位である。
「ピッチャーのことは何にもわからない」「監督が頼りないから皆、自分たちでいろいろなことをやってますよ」が口癖だった。実際、選手の自主性にまかせることが多かった尾藤采配だが、とことん選手を信じ切るには胆力がいる。その部分で尾藤さんは他のどの監督よりも優れていたと思う。
春・夏連覇を決めた'79年夏の甲子園大会決勝の池田戦では相手エースの一塁けん制のときのクセを1番打者の嶋田宗彦が見破り、それが勝利の原動力になったと話してくれた。そして、勝因は監督の采配ではなく、徹底して「選手の力」だと言うのである。
「監督によっては1球ずつキャッチャーにサインを出す人もいるみたいですけど、僕はそういうことを一切しません。守りに行ったらすぐベンチ裏にタバコを吸いに行ってましたから(笑い)。『ああ、ランナーを出したな』とか『得点を入れられたんかなあ』とか、歓声を聞きながらタバコを吸ってましたね」
いい力の抜け具合ではないか。
こんな尾藤さんが私は大好きだった。その人柄に接したマスコミ人の多くは皆、同じ気持ちだと思う。
気さくな人柄で多くのファンから愛された含羞の人。
忘れられない光景がある。
'06年の明治神宮大会の期間中、ABC朝日放送の番組プロデューサー・岩下隆さんは僕も含めたスタッフを引き連れて、地下鉄丸ノ内線・四谷三丁目駅に程近い居酒屋「あぶさん」のドアを開いた。同大会を中継したスカイ・A sports+で解説を担当した尾藤さんも一緒である。
満席状態の店内からは「何で尾藤さんがいるの?」「尾藤さん、本物?」という声があちこちから聞こえ、店長の石井和夫さんが箕島高対星稜高戦のビデオをかけると、テンションは一気に上がって、歓声と拍手が沸き上がった。そして、尾藤さんは頭を掻きながら立ちあがって、「かなわんなあ」という風情で、頭を下げた。このときの光景は一生忘れないだろう。合掌。