詳説日本野球研究BACK NUMBER
箕島高校、伝説の激闘譜は永遠に。
名将・尾藤公監督の思い出。
text by
小関順二Junji Koseki
photograph byNIKKAN SPORTS
posted2011/03/10 10:30
1991年の第63回センバツ大会1回戦、箕島対旭川龍谷戦でベンチから指示を出す尾藤監督。この大会が甲子園での最後の指揮となった
箕島高校野球部の監督として一時代を築いた尾藤公(ただし)さんが6日午前3時37分、膀胱移行上皮ガンで亡くなった。享年68。
雑誌『ホームラン』(2008年11月号/廣済堂あかつき)で尾藤さんを取り上げるために和歌山県有田市箕島を訪れたとき、初めて長時間にわたって話を聞いた。
たったそれだけの関係で、私は尾藤さんに強く魅かれた。
尾藤さんは一言で言うなら「情の人」である。
情熱家とか熱血漢と言い換えてもいいが、それは若かった頃の尾藤公。監督勇退後の尾藤さんからは現役時代の角が取れ、その周囲を「情」が取り巻いているように見えた。
「情の人」を最も印象づけたのは既に箕島高の監督を勇退し、外から見守る立場になった1998年に起こった“シャドーノック事件”ではないか。
ノックによって選手と対話していた尾藤監督。
この年、箕島高は2年生の不祥事で和歌山大会の出場を辞退しなければならなかった。
「泣いてるピッチャーが何人かおりまして、一番前にいる子を見たとき目が合って、ちょっと合図を送ったんです。そしたらその子も合図を送り返してくれて、何をしたかというと、ボールもバットもないのにコンと打つ真似をした。目に見えないボールを追って、その合図を送り返してくれた子がツカツカと前に出てきて捕る真似をして、一塁へ投げる真似をした。ほなら一塁の子も泣きながら捕る真似をして、またホームへ返す真似をする。僕の横にキャッチャーの子もいて、また泣きながら捕る真似をして、僕に渡す真似をするんです」
「('95年に監督を勇退していたので)3年間、監督から離れていたときですよね。それでも以心伝心でそういうことができるものなんですね」と私が言うと、「そうだったですねえ、急にやってよう捕れたね。ピッチャーの子が無視しておったらあんなことになってないしね」と屈託なく笑った。