甲子園の風BACK NUMBER
大阪桐蔭野球部の新入生が一番驚くことは? 「最強世代」で最初にブレークした“スーパー1年生”が振り返る16歳の衝撃「1日を乗り越えるのに必死で…」
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佐藤春佳Haruka Sato
photograph bySANKEI SHIMBUN
posted2025/04/14 11:03

大阪桐蔭「最強世代」メンバーの山田健太内野手
1年生で「4番」に大抜擢
強豪チームをあえて選んだ他の仲間たちもやはり、同じ思いを持っていた。必死に練習に食らいついていった1年生の頃から、どの選手も野球に対する意識はとにかく高かったという。
「周りに影響される人はあまりいなくて、それぞれ自分にとって必要な課題にしっかり向き合うような選手が多かった。一緒にやりながらも、そういうところは凄いなと思って見ていました」
高いレベルで切磋琢磨するミレニアム世代の仲間たちの中で、一番に飛び出したのが山田だ。夏の府大会で敗れ、始動した新チームで1年生ながら「4番・サード」に抜擢されたのだ。
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「夏に負けた後、毎日オープン戦みたいな感じで実戦があったんですが、そこである程度結果が出て……。とはいえ信頼されて4番を任されたということではなく、1つ上の代に不動の4番というような存在がいない状況だったので、『それなら山田いくか』みたいな感じでしたから」
「スーパー1年生」注目の中で
本人はそう謙遜するが、ただの「4番」ではなく「大阪桐蔭の4番」である。ミレニアム世代の「スーパー1年生」として周囲からの注目は高まった。しかし、秋の大阪府大会準決勝・履正社戦は1安打しか打てず敗れ、近畿大会1回戦では無安打。準々決勝からは根尾に4番の座を明け渡した。
「プレッシャーがというよりは、完全に技術不足だったと思います。試合で結果を残せるだけの技術がなかったということ。ただ、その時の悔しさや冬の間の練習が、自分の中ですごく大きなターニングポイントになったな、というところがあって……」
近畿大会は準決勝で敗れたが、春のセンバツ大会出場の可能性は残して迎えた冬。山田は、悔しさをバネに徹底的にバットを振り込んだ。追求したのは、強い球に負けないバッティングだ。
「橋本(翔太郎)コーチがつきっきりでティーバッティングや素振りを見てくださったんです。バットのヘッドをどうやって使うかとか、技術的な部分の細かいところから色々と教わって、毎日バットを振って確認していく中で少しずついい感覚が身についていった。がむしゃらに頑張った感じですけど、今振り返ると、あの冬がなければその後はなかったと思いますね」
野球ノートに書かれた言葉
この時期にかけられた西谷浩一監督の言葉も強く記憶に残っているという。