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「なぜ一軍に上げない?」張本勲がビックリ“二軍にいた”落合博満の衝撃…2人の天才を率いた“山内一弘監督”とは何者だったのか? ロッテOBの証言
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岡野誠Makoto Okano
photograph byKYODO
posted2025/04/05 11:02

プロ入りした1979年から86年までロッテでプレーした落合博満
「当時は技術論を理解できなかったけど、後になって『こうやって打つんだな』とわかってきました」
昭和だけど“根性じゃない”山内
80年はプレーオフで近鉄に敗れ、惜しくも日本シリーズ進出ならず。雪辱を期した翌年、ロッテは2年連続で前期優勝を果たす。昭和50年代、指導者の大半は「根性を見せろ」と選手を叱咤していた。しかし、山内はゴルフ雑誌で“潜在能力”という言葉を見つけ、選手の良さをどのように引き出すか勉強に励んだ。
〈選手は、翌日の新聞に出る監督談話ってのを気にするからね。一生懸命やってるのに、傷つけちゃいけない、もっともっと積極的に“やる気”を起こさせなければならない〉(※4)
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巨人との日本シリーズを懸けたプレーオフ、ロッテは後期優勝の日本ハムに挑む。第2戦、同点の9回裏1死一、三塁で、猛打賞の水上に打順が回ってくる。マウンドには抑えの切り札・江夏豊がいた。山内監督がベンチを飛び出そうとすると、コーチや選手から「ミズ(水上)でいった方がいいですよ」という声が飛んだ。しかし、指揮官は迷わず、代打・江島巧を告げた。
「たしかに、私は江夏さんを打てていなかった。そのデータを頭に入れていらっしゃったんだと思います。結果的に、江島さんは凡退(浅い左飛)に終わりましたけどね。山内さんは何でもかんでも人の言うことを取り入れるんじゃなくて、自分のなかで一本芯が通っていた。その上で、いろんな意見を聞いていました」
落合が語った…山内監督のこと
結局、ロッテは1勝3敗1分で、またしても日本シリーズに進出できなかった。留任が確実視された山内監督だったが、「練習場と合宿所の隣接」「コーチやトレーナーの低年俸の改善」を毎年要求しながら、一向に動かないフロントに業を煮やして辞任した。
「2年連続で前期優勝したのに、もったいなかったですよね。当時の球団体質だと、山内さんの意見を許容できなかった」
打撃指導を断り、仲違いしたように思われる山内と落合だが、監督退任後も関係性は続いた。83年春、落合は2年目の西村徳文を連れて、山内の自宅に訪れ、指導をお願いしている。オフには野球教室に呼ばれ、ゴルフも共に楽しんだ。
〈普通だったら、そうやって言った選手ってのは鼻にも引っ掛けないような感じになるじゃない? でも、そういうアレじゃなかったよ〉(※5)
水上は選手、ファーム監督、コーチとして11人の指揮官を見てきた中で、昭和は山内一弘、平成は工藤公康の名を挙げた。では、令和の名将は誰か――。〈つづく〉
※1 91年7月25日発行/書籍「闘魂のバット 3000本安打への道」
※2 80年7月27日付/スポーツニッポン
※3 01年8月30日発行/書籍「コーチング 言葉と信念の魔術」
※4 81年5月25日号/週刊ベースボール
※5 22年5月16日配信/【公式】落合博満のオレ流チャンネル
