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「このまま引退かも」から2年…藤井聡太を返り討ち「ベンチプレス100キロ、握り寿司+鉄火巻で2人前」“筋肉隆々の羽生世代”丸山忠久の素顔とは
text by
田丸昇Noboru Tamaru
photograph by日本将棋連盟
posted2025/01/10 06:01
いわゆる「羽生世代」の1人、丸山忠久。銀河戦連覇とともに、名人、棋王を奪取したことがある名棋士だ
丸山は棋士としてのスタートラインで、同じ「羽生世代」の棋士たちに後れを取った。しかし、棋士になってからは各棋戦で活躍した。公式戦の年間勝率は90年度から10年連続で7割~6割台で、94年には24連勝を達成した(当時は歴代2位)。
「激辛流」と呼ばれたワケ
89年に米長九段は東京・中野区の自宅の隣にプロ専用の「米長道場」を開設した。塾長は森下卓(現九段)で、羽生、佐藤、郷田、藤井、丸山らの若手棋士、奨励会員、女流棋士などが参加した。
ある日、丸山と米長の弟子の中川大輔(現八段)が朝7時に来て2時間ほど指して帰ったが、当日は2人とも対局で肩慣らしに指したという。そして2人とも勝って道場に戻ると、夜中まで研究していた。丸山と中川は当時、毎日8時間以上は指していた。米長が体のことを心配すると、こう言われた。
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「先生は将棋を指して疲れることがあるんですか」
丸山の将棋は容易に崩れない粘り強さに特徴がある。「華麗に勝ちたい」「見苦しい手は指せない」といったことに頓着せず、非情なまでに勝負に徹した指し方をした。勝ちを急がない手堅い棋風は「激辛流」と呼ばれた。
対局中は闘志を表にあまり出さず、駒音はいたって静かで「音なし流」と呼ばれた。盤外では口数は少なく、「まあ」とか「そうですね」と相槌を打つ程度。ただ不愛想ではなく、いつもニコニコと笑みを浮かべていた。私生活はベールに包まれていた。棋士と研究相手としての関係はあっても、私的な交友はなかった。
2000年の第58期名人戦で丸山八段が佐藤名人に初挑戦し、4勝3敗で制して丸山新名人が誕生した。第7局での心境について、《自分の指したいように指した。無邪気に楽しんだ子どものときに戻ったような気がした。その結果、納得のいく将棋を指せた》と将棋雑誌に記した。01年の名人戦で丸山名人は谷川浩司九段の挑戦を受け、4勝3敗で名人初防衛を果たした。
「にぎり寿司+鉄火巻き」「唐揚げ定食+唐揚げ3個」
そんな丸山を語るうえで欠かせないエピソードが、その大食漢ぶりである。