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クラッシュ・ギャルズよりも“米国で大人気”だった日本人女子タッグとは? WWEが特別扱い、JBエンジェルスはなぜ人気絶頂で“帰国”したのか―2024下半期読まれた記事
text by
堀江ガンツGantz Horie
photograph byAFLO
posted2024/12/28 06:28
山崎五紀(左)と立野記代のJBエンジェルス(1986年撮影)
そして’86年に2度、クラッシュ・ギャルズの全米進出が実現したあと、あらためてWWEはJBエンジェルスの派遣を全女に要請。ついにJBのWWE参戦が決定する。しかも、単発での出場ではなくWWE全米ツアーへの合流だった。
アメリカでのコンビ名は、JBを略さず、そのまま“ジャンピング・ボム・エンジェルス”に決定。まず1回目のツアーは’87年6月から6週間で全38試合という過密スケジュールだったが、年間300試合近く興行を打っていた当時の全女で鍛えられていたJBは、これをなんなく消化。そしてグラマー・ガールズ(レイラニ・カイ&ジュディ・マーチン)との抗争で、いきなり人気に火がついた。
当時のWWEは、今とは違ってまだ女子プロレスが前座の“色物”のようにしか見られていなかった時代。しかし、JBのスピーディな動きと、高度な技の数々は、アメリカの観客の女子プロレスに対する認識と偏見を、短期間で変えるほどのインパクトを与えたのだ。JBにとっては抗争相手が、全女に来日経験があるレイラニとジュディだったため、普段どおりの“全女の試合”を見せられたのも大きかった。
WWEでは“異例の特別扱い”だった
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6週間のツアーが終わり一時帰国後、2度目の遠征は、’87年11月23日にスタート。ここからWWEはJBを本格的に売り出していく。11月26日にはビッグイベント『サバイバー・シリーズ』の第1回大会に出場。そして翌’88年1月24日『ロイヤルランブル』の第1回大会では、グラマー・ガールズを破り、ついにWWE世界女子タッグ王座を獲得した。これはもちろん日本人女子レスラーとしては初の快挙だ。
この試合は『ロイヤルランブル』という『レッスルマニア』に次ぐ規模のビッグマッチのセミファイナルで組まれ、異例の3本勝負で行われた。いかにWWEでJBエンジェルスが特別扱いだったかがわかる。
アメリカでのJBエンジェルスの人気は、この2回目のWWE遠征で爆発。アイスキャンディーのテレビCMにも起用され、「私たちは日本から来たジャンピング・ボム・エンジェルス。アメリカも好きだけど、このアイスも大好き」というセリフで、さらに知名度を上げた。
このJB人気を受けて、WWEの総帥ビンス・マクマホンはある決断をする。
この時期、WWEの絶対的なスーパースターだったハルク・ホーガンが、第一子が生まれたのを機に数カ月間リングを離れることが決定していた。ビンスはホーガン不在の間、’88年3月の『レッスルマニア4』でホーガンから王座を禅譲されるような形で新WWE世界王者となる“マッチョマン”ランディ・サベージとJBエンジェルスの二枚看板でプロモートしていこうとしていたのだ。