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落合博満が“野村克也のボヤき”に本音「あれは70代のお爺ちゃんだから面白いんだ」…社会人野球に救われた名将ふたりの“まったく異なる監督像”
posted2024/12/29 17:02
text by
横尾弘一Hirokazu Yokoo
photograph by
Sankei Shimbun
野球人としての野村は終わったと思われたが…
落合がそんな思いを巡らせていた'02年の晩秋、野村克也がシダックスの監督に就く。バブル経済崩壊の影響で企業チームが次々と姿を消し、この年の都市対抗は4チーム減の28チームで開催された。それに加えて観客動員も落ち込み、優勝したいすゞ自動車がその年限りで活動を休止するなど、明るいニュースがなかっただけに、野村は社会人野球の救世主だと感じた人は少なくなかった。実際、野村がいた3年間は、社会人野球がメディアに取り上げられる機会がうんと増えた。
だが、その一方で野村も社会人野球に救われていた。ヤクルト監督としてID野球を実践し、9年間でリーグ優勝4回に導いた知将も、'99年から阪神を指揮すると3年連続で最下位に沈む。球団フロントは4年目に期待したものの、沙知代夫人が脱税容疑で逮捕され、辞任せざるを得なかった。
その時、66歳。野球人としての野村は終わったと思われたが、少年野球を通じて親交があった志太勤会長(当時)に請われ、シダックスで指揮を執ることになる。
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「'99年の日本選手権で初優勝したあと、'01、'02年は都市対抗、日本選手権とも予選敗退。チームが休部になるんじゃないかと言われる中で、野村さんのようなビッグネームが監督になるのでは、という噂はありました」
正捕手だった坂田精二郎がそう振り返るように、選手たちは驚きもなくスムーズに野村を迎え入れる。シダックスは創部10年の新鋭で、保守的な伝統に縛られていなかった。しかも、創部時から活動を休止した他企業の選手を受け入れており、'03年も野間口貴彦(元・巨人)ら有望な新人や転籍者を15名も採用した。さらに、オレステス・キンデランやアントニオ・パチェコのキューバ勢もいる。プロと似た選手構成で、野村も手腕を振るいやすかったのではないか。