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「TBSにまで借金取りが…」「路上生活者になった」説も…数千万円“ギャンブルの借金”で行方不明になった伝説のプロレスラー、証言された「死の真相」―2024下半期読まれた記事
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byAFLO
posted2024/12/26 06:50
1961年、力道山(左)とタッグを組んでいた豊登(右)。力道山の死後、豊登は転落していく
実際、移籍先である国際プロレスは豊登を好待遇で迎えた。TWWA、IWAと、2つのタッグのベルトを獲得させ、興行の中心に据えた。力道山の好敵手でもあったルー・テーズとも対戦させるなど、団体にとってなくてはならない存在となっていた。国際プロレスの中継番組『TWWAプロレス中継』のプロデューサーでその後、TBSテレビ運動部長、TBSテレビ広島支局長を歴任する森忠大は、生前、次のように筆者に明かしてくれた。
「トヨさんの存在は大きかった。ヒロ・マツダが抜けて、グレート草津がエースになったでしょう。でも、これもぽしゃった。あのときトヨさんがいなかったら、団体は潰れていたかもしれない。やっぱり、力道山時代に培った知名度が大きかった。ウチ(TBS)にとっても功労者ではあるんだよ。だって、視聴率も随分と助けてもらったから」
しかし、その国際プロレスも豊登にとっては安住の地とはならなかった。1970年2月11日に板橋区体育館で行われた「国際プロレス・新春チャレンジシリーズ」最終戦で、突如、スーツ姿でリングに上がった豊登は「皆さん、長いことお世話になりました。今日をもってプロレスとお別れです」と引退を宣言。事実「豊登は松山市の建築業、大元組に入社。新しい人生を踏み出すことになる」とスポーツニッポンは報じている。前出の森忠大は、突然の引退劇を次のように明かしていた。
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「トヨさん自身が作ったギャンブルの借金が凄いことになっていた。それが取り返しのつかないところまで来ていて、TBSにまで借金取りが押し寄せるようになっていた。TBSは東大卒も多いし、この頃はドラマやスポーツより報道が中心で、ある意味、NHK以上に官僚的な会社だったからね。そういうことが頻繁に起こると、社内的に大問題になる。そんなこんなで、団体にも会社にも貢献してくれていたし、視聴率的にも美味しい存在だったけど、上層部からの指示もあって、断腸の思いで、社長の吉原(功)にトヨさんを切るように通達したわけ」
リキボクシングクラブの第1号選手で、この時期は、すでに金融業を営んでいた琴音隆裕は次のように回想する。
「この頃の俺は、もうプロレスともボクシングとも直接の関係はなくて、言ってみれば、百田家の相談役みたいな立場にあったけど、トヨさんの負債について、周囲の関係者から相談されたことがあった。数千万円だから、今で言うと億だよ。あれは全部ギャンブルで作ったんだ。病気だろうね。ちゃんとした治療を受けないとまずかったんだと思うけど、当時はそういうのはないから」
力道山が存命中なら「もう、あいつは相変わらず仕方ないなあ」と不問に付されたギャンブル癖も、この頃は、世間並みに指弾されるようになっており、さすがに、豊登のプロレス復帰は二度とないかと思われた。
“異端児”豊登が復活した日
日本プロレス。東京プロレスに続き、国際プロレスさえ追い出された豊登は、完全にその姿を消した。「松山の建設会社に就職した」というのも、早い話が債権者から逃げるために相違なく「プロレス復帰は叶わない」と誰もが思ったはずだ。しかし、天は豊登を再び表舞台に呼び戻す。