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「TBSにまで借金取りが…」「路上生活者になった」説も…数千万円“ギャンブルの借金”で行方不明になった伝説のプロレスラー、証言された「死の真相」―2024下半期読まれた記事
text by
細田昌志Masashi Hosoda
photograph byAFLO
posted2024/12/26 06:50
1961年、力道山(左)とタッグを組んでいた豊登(右)。力道山の死後、豊登は転落していく
さすがに、親友である芳の里もこの一件を看過出来ず、博打で溶かした2千万円を退職金代わりに、豊登を会社から追放する。本来なら自らの過ちに気付き、悔い改めるのが常人の行動とは思うが、彼の場合はそうはならない。復讐の鬼となって、起死回生の策に出るのである。
太平洋上略奪事件
ジャイアント馬場と同日デビューのアントニオ猪木は、この時期、アメリカで武者修行中だった。この時期の猪木にとって豊登は、リングネームの名付け親であるばかりか、何くれとなく世話を焼いてくれる兄のような存在であり、一方の豊登にとっても、猪木は弟のような存在であると同時に、切り札でもあったと言っていい。
猪木をホノルルに呼び寄せた豊登は「お前はずっと馬場の下にいることになる。それでもいいのか」と猪木を口説き、新団体・東京プロレスに引き入れることに成功する。世に言う「太平洋上略奪事件」である。
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23歳の若き社長に就任したアントニオ猪木は、蔵前国技館で行われた東京プロレスの旗揚げ戦において、ジョニー・バレンタインを相手に激しい試合を展開。ファンとマスコミに「新時代のプロレス」を印象付けることに成功する。実質的な団体のトップである豊登の目論見も結実するかに見えた。
しかし、ここでも豊登は躓いてしまう。ギャンブル癖が頭をもたげ、会社の金を流用するようにもなっていた。アントニオ猪木自身は、当時のことをこう振り返っている。
《私は豊登から三十万円渡された。当座の支度金というような名目だったと思う。それはいいのだが、その後、私は大井競馬場に連れて行かれた。豊登の博打に付き合わされたのだ。貰った三十万も豊登が馬券に注ぎ込んでしまって、あっけなく観覧席の紙屑と消えた》(『猪木寛至自伝』新潮社)
程なく、豊登と猪木は決裂、訴訟合戦まで発展し、泥仕合の末に東京プロレスは崩壊。猪木は古巣の日本プロレスに復帰し、豊登は国際プロレスに移籍するのである。
突然の引退「TBSまで借金取りが…」
もともとは、ヒロ・マツダをエースに「力道山時代にはなかった新しいプロレス」を標榜して旗揚げされた国際プロレスにとって、豊登は「旧時代の遺物」にすぎず、エースとして招かれたわけでは決してなかった。とはいえ、高い知名度が地方の興行師・プロモーターに買われたのも事実だった。